宿泊部屋に帰ったオウルンにようやく起こされた神崎千早は、寝ぼけた顔で洗面台に立ち歯を磨いていた。すっかり寝坊した。でもどうせ、夕方までランは帰って来ないのだし、今さら教会に行っても遅いだろう。ランが帰宅する頃にまた訪れるとしよう。
部屋の方からキュウコの慌ただしい声が千早を呼んだ。
「千早! 千早! 大変だキュ!」
「あぁ? なんだ妖精、気安く呼ぶな」
「早く来てキュ!」
口をゆすいでから、イラ立ちを隠さずに千早は部屋に戻った。キュウコとオウルンがテレビの前に張り付いていた。
「どうした、うるさいぞ」
キュウコとオウルンはバッと振り向いた。切迫した表情から、どうやら只事ではないらしいと察した。
「千早っ」
「千早……これホッホー」
険しい顔でオウルンがテレビを指さす。テレビでは緊急ニュースを流していた。地下鉄が突如として浸水し、△△町の各所で水害が起こっているという。
水が溢れる地下鉄入り口や、高々と水を噴き上げるマンホール、水浸しの道路などが繰り返し映された。映像は全てヘリコプターから撮っていた。地上からではとても中継できる状況ではないらしい。
寝ぼけていた頭が冴えてきた。というより、目を覚まさざるを得ない。ただの災害ならもう一睡するところだが、自然災害の類でないことは明白だ。
何が起きたかは見ればわかる。リポーターの声は聞かず、千早はテロップに目を走らせた。「原因不明」「水はどこから溢れたのか?」「謎の水害発生」……水の出処は一切不明らしい。
画面に映る、水で溢れた悪夢のような光景の地下鉄入り口を見据え、千早は呟いた。
「ダークゴットズの手先……ストーンホルダーか」
外から甲高い音が鳴った。オウルンが窓に駆け寄り外を見た。ホテルのすぐ近くのマンホールが吹き飛び、水が噴き出していた。キュウコは青ざめた。
洗面台に戻り顔を洗い、服を着替え手早く支度を済ませ、眼鏡を拾い、コートを手に取り千早は部屋を出た。キュウコとオウルンは駆け足で千早に付いて行った。
廊下を歩きながら千早が尋ねた。
「水に関するエナジーストーンは?」
早足で進む千早に追いつき、オウルンが背後から答えた。
「アクアストーンだホッホー」
「水を発生させ操る能力だな?」
「そうだホッホー」
千早は眼鏡をかけた。
「ダークアクアってところか。前のダークグラビティはリパルジョンストーンを併用していた。今回も2個持ちの可能性は?」
「ありえるホッホー。でも他の能力はまだわからないホッホー」
呼び出しボタンを押し、エレベーターを待つ。近づく階数表示を眺め、千早が言った。
「どちらにしても、私に勝ち目はないな」
鶴来ランが乗るバスは、道路を襲う浸水被害から逃れるように走っていた。
ともに乗車した隣にいるクラスメイトが、怯えた顔でバスの後ろを振り向く。水が道路をじわじわと迫っていた。
「ねえ、やばくない? 大丈夫かなぁ?」
クラスメイトの不安などどうでもよかったが、ランは適当に当たり障りなく応じた。
「そうですね……今はとにかく、学校に着きさえすれば大丈夫なはずです。うちの高校は避難所にも指定されていますし」
「このバス学校まで行ってくれるかな?」
「どうでしょう。少し聞いてみましょうか」
とは言ったが、車内は満員でとても身動きの取れる状態じゃなかった。ランたちは車内の最後尾にいるので、運転手の話を聞くのはまず無理だろう。
涙目になるクラスメイトの手を握り、ランはほほ笑みかけた。
「きっと大丈夫ですよ。消防のサイレンも聞こえますし、他にもこれだけ人が一緒にいます。それでも不安なら、わたしと一緒に神様に祈りましょう」
ランは胸に手をあてた。Yシャツの中に提げたロザリオに触れた。
直後、走行するバスの目の前でマンホールが爆発した。水圧で車体が微かに浮き、フロントガラスが水に覆われ視界を塞がれた。それでも運転手はハンドルを強く掴み、車体を立て直そうとした。バスはなんとか均衡を保った。
しかし、後方から高速で駆けた大型車がバスに激突した。軌道を曲げられ、車線を越えたバスは外灯に衝突し、停車した。車内に無数の悲鳴がこだました。
停車したバスから1キロ先に、左右三車線の大通りが収束する広い交差点がある。交差点は既に水浸しになり、大通りには立ち往生する車両の屋根で救助を待つ人々が点在した。
交差点の中心が盛り上がり、アスファルトに穴が空いた。交差点に空いた穴に排水溝のように水が流れ込む。地響きが鳴り、交差点の穴から太い水の柱が現れた。
重力に逆らい、高々と天に昇る水の柱。その上に、黒い鎧を纏った不気味な人影がいた。
兜の中に青い眼と、胸の中に青い炎を灯した怪人――ダークアクアは、自らが創り出した膨大な水を操り、市街地に甚大な水害を巻き起こしていた。
そびえ立つ水の柱の頂点に立ち、ダークアクアは水浸しになった街を眺めた。人々の困惑や恐怖、絶望などの負の感情が生むダークエナジーが彼のもとに集まって来る。
『無様ナ人間タチヨ、モット絶望シロ。人間ゴトキガ水ニ抗ウコトナドデキナイコトヲ教エテヤロウ』
ダークエナジーを滾らせ、胸の中に燃える青い炎が強く発光した。ダークアクアが大きく両腕を広げると、地下鉄に溜まっていた水が各所の道路を突き破り地上に飛び出した。街のあちこちに水の柱が立つ。
『地獄ヲ見ルガイイ』
ダークアクアが広げた手を縦横無尽に振り回した。巨大な水の柱がダークアクアの腕と連動し蛇のようにうねった。
うねった水の大蛇は首を振り回し、周囲の建物を破壊し始めた。水流が外壁を砕き、屋内に流れ込んだ水がビルや家の中にいる人々を溺死させた。建物を貫いた水の大蛇は死体や瓦礫を巻き込んだまま、次の建物へと襲いかかる。
『ハアァァッ!』
水の大蛇の一つが、高層ビルの中腹を貫いた。上下に断った高層ビルの屋上側を、壮絶な水量が持ち上げる。
ダークアクアがまるでボールでも投げるかのように、腕を振った。連動した水の大蛇が、持ち上げたビルの上部を放り投げた。質量を無視したスケールの大破壊は、水害とともに街を蹂躙していった。悪夢のような光景を、人間たちはただ見つめるか、逃げるかしかできなかった。しかし、ダークアクアの意のままに操られる水からは、逃げることすら叶わなかった。
外灯に衝突して停車したバスのなかで、ランは倒れたクラスメイトの手を引いて立ち上がらせた。車内の人々はドミノ倒しになっていた。子供の泣き声が聞こえた。
「お怪我はしていませんか?」
「痛い……もうやだ……」
外から大きな破壊音がした。ランは窓から外を見た。嘘のような光景に、車内は騒然とした。
巨大な水の蛇が、上下に分断したビルを空高く放り投げていたのだ。投げられたビルは、ランたちがいるバスの上空を通過しある方角へ飛んでいった。
この道路に落下しなくて良かったと安堵する乗客の声を聞きながら、ランはビルが飛んでいった方向を見つめていた。ビルは放物線を描き、徐々に降下し始めていた。
「……あっちには、教会が――」
次の瞬間、ビルを放り投げた水の大蛇が向きを変え、道路を薙ぎ払った。信号機や外灯、立ち往生する車が蹴散らされた。水の大蛇の直撃を受けたバスは真っ二つになり、路上を転がった。
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