【ハートフルフォン】……少女をハートフル戦士に変身させる機械。ハートフルランドで開発された。ハートフルエナジーによって動き、電話をしたりインターネットを見たりなど、様々な機能がある。戦士用と妖精用がある。高密度のハートフルエナジーでコーティングされており、極めて頑丈。変身した際、戦士の腰にあるポーチに収められる。
ハートフル戦士サイコ・ブラッドに変身した神崎千早は、5キロほど離れた民家の屋根からダークアクアを観察していた。
敵に悟られないよう、ハートフルエナジーは極力抑えていた。今変身しているのも、不測の事態に備えるのと、上昇した視力でダークアクアを視認するためだった。千早に戦う気は毛頭なかった。
「どうして戦わないんだキュ!?」
隣でキュウコが怒鳴る。千早はじっとダークアクアを見据えていた。白衣に似たローブが風にバタバタと煽がれる。
「今まさに沢山の人が殺されてるのに! どうして動かないんだキュ!?」
千早は髑髏の形をした瞳孔をキュウコに向けた。骨を模したピアスが日光を反射して輝いた。
「さっきも言っただろう。私では勝ち目がない。あれを私にどうしろって言うんだ?」
「でも……千早はハートフル戦士だキュ!」
深くため息を吐き、千早は面倒くさそうに話した。
「無謀は無駄死にしか生まん。いいか、今私が飛び出したところであのバケモノには到底敵わん。選ばれた所謂サイコパスの少女は、君らの狙い通り一般的な少女よりもハートフルエナジーが高い。だが、日ノ出才子の例に見る通り私たちのハートフルエナジーの振り分けには大きな偏りがある」
才子はコスチュームすら捨て、攻撃力に全エネルギーを注いでいた。ハートフル戦士の変身した姿や能力は本人の精神的嗜好による。サイコパスならば変身した能力に偏りが生じるのは当然と言えた。
「私の血肉を操る能力は遠隔操作と緻密な操作に長けている。その代わり身体能力や防御力は低い」
「キュ……」
「そのうえ、今回の敵は何トンという水を操るバケモノだ。私の防御力と、血肉を操る程度の能力ではとても敵わない。君はさっきから、私に自殺をしに行けと言っているようなものだ」
「キュウ……」
拳を握りしめ、キュウコは俯いた。正直言ったところ、歯がゆいのは千早も同じだった。犠牲者が増えることについてはどうでもいいが、ダークアクアは今後も脅威となる強力な敵だった。できれば今のうちに倒しておきたいのだ。
この場にもし才子がいたならば戦況は違っただろう。才子の機動力と破壊力なら、ダークアクアに対抗することもできる。千早のサポートもあれば勝機は十分だ。
千早は戦闘には向いていない。ハートフル戦士の頭脳でありヒーラー的立ち位置にいるため、強力なダークゴットズの手下とタイマンを張れるほどの力はない。
だから他のハートフル戦士と合流しチームを組むことが先決だ。この場ではダークアクアを見逃すしかない。あるいはランの力が通じるならば、と考えたが……登校したランとはまだ連絡がついていなかった。
街で暴れるダークアクアを睨み、千早は舌打ちした。
「あのイカれシスター、死んでないだろうな」
オウルンが悲鳴のような声で怒鳴った。
「教会が!」
「!?」
オウルンが指さした方を振り向くと、市街地から放り投げられたビルが住宅街に落下していた。落下した先には、沢山の民家があった。そこには教会と孤児院も含まれていた。
市街でダークアクアが行う破壊活動の騒音と震動は、朝の祈りの時間を過ごしていた教会のシスターや幼い子供たちにも伝わっていた。祈りを一旦中止し、シスターは子供たちを一か所に集めていた。暫く堪えていたが、恐ろしい破壊音は治まるどころか激しさを増していた。
テレビニュースで状況を確かめたマザーが礼拝堂に戻って来た。
「大変なことが起きているわ。とりあえず皆、院の方へ移動しましょう」
怖がる幼年生を年長が慰めていた。子供たちを連れ、シスターとマザーは孤児院の方へ連れ出そうとした。
「さあ、皆行きましょう。大丈夫、何ともないからね」
カラン、と小さな何かの破片が教会の屋根から転がり落ちた。不意の音に、シスターたちは顔を上げた。
直後、ダークアクアが投擲したビルが教会のある住宅街に落下した。教会と孤児院は周囲の民家もろともビルの下敷きになった。
屋根が崩れ、ステンドグラスが飛び散る。割れたステンドグラスが降り注ぎ子供たちを切り裂く。教壇の十字架が倒れ、マザーの頭を殴打した。倒れたシスターの目の前に、聖書が転がり落ちた。天井を破ったビルの外壁が頭上に迫る。
全て、一瞬の出来事だった。
悲鳴を上げる暇さえなく、彼らはビルに圧し潰された。
ほんの数十秒の眠りから、鶴来ランは目を覚ました。体に鈍い痛みがあった。気絶していたらしい。ランはいつの間にか外に寝そべっていた。
手足や顔の擦れた傷から血が出ていたが酷い怪我はなかった。四肢が動くことを確かめ、ランは起き上がった。
冷たい感触。濡れている。血じゃない、水だ。ランが倒れていた道路は水浸しになっていた。アスファルトが割れ、辺りに壊れた車や信号機、何かの破片が散らばっている。周囲の建物は窓が全て割れ、すぐそこのビルの外壁にはランが乗っていたバスの前部分が突き刺さっている。まるで終末世界のような荒れ果てた地獄絵図だった。
ランは気を失う前の記憶を探った。水の大蛇に襲われ、バスが真っ二つにされたのだ。壊れたバスから、ランは運よく投げ出されたようだ。ランがいたバスの後部は、百メートルほど先の路上に縦に突き立てられていた。
乗客の悲鳴とぐるぐる回る視界。断末魔。バスが壊れる聞いたこともないような大きな音。それが最後の記憶だ。
そこらじゅうに無惨に引き裂かれた人の死体がある。彼らに比べれば、ランはほとんど無傷に等しかった。非常に幸運だ。痛む肩を押さえ、ランはくるぶし程の高さまで浸水した道路を歩き始めた。
背後の遥か遠くから大きな音がした。振り返ると、水の大蛇が暴れ、好き放題に街を蹂躙していた。ビルが次々と薙ぎ倒されていく。うねる水の大蛇の中心に、青く光る黒い鎧騎士が見受けられた。あれがダークゴットズの手下か、とランは悟った。
ブレザーのポケットに手を入れると、スマホは残っていた。画面が割れていたが辛うじて動いたので、電話をかけた。相手は何コール待っても出なかった。
一人目を諦め、ランは別の相手に電話をかけた。近くで着信音が鳴った。着信音を探す。横転した信号機の陰から、女の足が投げ出されていた。着信音はそこから鳴っていた。
「…………」
瓦礫や死体、原形を留めていない肉片を跨ぎ、ランはそこまで歩いて行った。着信音は鳴り続け、電話の相手は出なかった。間近で見ると思ったよりも大きい信号機に手を触れ、ランはその裏側に寝そべる人を覗き見た。
自分と同じ制服を着た、クラスメイトが倒れていた。ケータイは制服のポケットのなかで鳴っていた。
大丈夫? と声をかけようとして、ランはやめた。
クラスメイトは、首から上がなくなっていた。頭があった場所には、コンクリートブロックが置いてあった。アスファルトにめり込んだコンクリートブロックの下からは血が飛び散っていた。
「…………」
ランは電話を切り、スマホを捨てた。水の上にバシャッと落ち、スマホは流れていった。ランは気にも留めなかった。着信音がやんだ。
遠くで暴れるダークアクアを、ランは眺めた。ランは無表情だった。
ビルが崩れ落ちる。ランは何も感じなかった。クラスメイトの死体を見ても、彼女は何も思わなかった。
「ラン!」
甲高い声に呼ばれた。声のした方を見ると、カエルのぬいぐるみのような姿をした、妖精のロケロンがいた。ランのスクールバックに忍んでいたのだ。普段からそうして登校し、ロケロンはランの傍にいた。ロケロンの後ろに眼をやると、ボロボロのスクールバックが落ちていた。
「ラン……大丈夫かケロ!?」
「……はい、平気です」遠い目でダークアクアを見つめる。「虚しいほどに……平気です」
「……ラン」
凄惨な景色を前にしても、死体の悪臭を嗅いでも、ランは真顔のままだった。心に動揺はない。友人と言える相手の死にも、自分があと一歩間違えていたら死んでいた事実にも、驚きも悲しみもしない。
ぼそっと、ランは言った。
「何も感じません」
駆け寄ろうとしていたロケロンが立ち止まり、ランを見上げる。壊れゆく街を眺めたまま、無機質にランは口を動かした。
「……さっき、投げられたビルが住宅街の方へ向かいました。おそらく教会は無事ではないでしょう」
「ケロ!?」
「マザーに電話をかけても出てくれません。みんな死んだんでしょうね」
「た、助けに行かないとケロ!」
「何故ですか?」
ランはロボットのように首を回し、ロケロンを見た。普段の聖女のような微笑は消え、瞳に灯っていた優しい光は消えていた。
「教会のマザーやシスター、子供たちが死んだことにもわたしは何も感じていません。悲しくもなんともないです。そこの友人が死んだことにも、特に感傷はありません」
もう、ランは死んだ友人の顔すら覚えていなかった。さっきまで一緒にいたのに。
「……ラン……」
Yシャツの中に手を入れ、ランはロザリオを取り出した。教会に迎え入れられた時、マザーから貰ったロザリオだ。マザーは皆の母親代わりだった。ランの青い瞳に、古びたロザリオが映り込む。
「……結局、神様を信じても、わたしはあの頃から何も変わっていないんです。両親を喪ったあの時も、わたしは何も感じなかった。何と感じるべきだったのか、何を思うべきだったのか、泣くべきだったのか驚くべきだったのか、叫べばよかったのか、それとも怒ればよかったのか、今も、何をするべきなのか……わたしは何を想うべきなのか……わかりません。わたしは何も感じることのできないまま、両親を喪ったあの時と変わっていないんです」
だから神にすがった。どんな時も、神に祈ることさえ信じ続けていれば、人間の真似をしていられたから。ランにとって神を仰ぐことは、人間の心を演じるための最も易い手段だった。
「ラン!」
「何ですか?」
ロケロンはハートフルフォンを持っていた。変身する時までは要らないと、ランが預けていた。ハートフルフォンを差し出してロケロンは言った。
「僕と、一緒に戦って欲しいケロ!」
ランの反応は極めて冷ややかだった。
「どうしてですか?」
「今なら、まだあそこに助けられる人がいるケロ!」
「どうでもいいです。誰が死んでも、わたしは悲しくありません」
「神の遣いになるって……ランは言ってたじゃないケロか!」
「先ほども言ったように、わたしの信仰心は人の皮を被るための虚像です。こうしてあらゆるものを失った今でも、わたしの心には何の感傷も去来しません。全て嘘だったことを突きつけられました」
「放っておいたら世界が滅びるケロ! ダークエンペラーが蘇えったら、今度こそ取り返しがつかないケロ!」
「……別にいいじゃないですか」
「ケロ!?」
十字架を握りしめると、ランは首に提げていたロザリオをちぎり取った。切れた数珠が水浸しの道路に落ちた。
十字架を強く握ったランの手から血が滲んでいた。痛くはあったが、それを辛いとは思わなかった。
淡々と、ランは言った。
「全て無意味だと思いませんか?」
「……無意味、ケロ?」
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