話の後、千早は才子の肉体を再構築するための図面を造るとかで、ラボに一人にするようキュウコとオウルンに指示した。邪魔したら怒られそうだったので、とりあえずキュウコとオウルンは地上の家の中で食事を用意することにした。
食材は買い溜めしてあるものが冷蔵庫にあった。冷蔵庫の中を見るに、本当に暫く一人で暮らしているんだとわかった。
妖精として今できることが料理しかないというのは、キュウコにとってなんとも複雑だった。キッチンに立つと昔料理を教えてくれたハートフル戦士のことを思い出した。あの頃はまだ平和な世界を保つことができていた。キュウコにとってはかけがえのない美しい記憶の一つだった。
オウルンとともに食材を並べ、献立を考えながらキュウコは言った。
「それにしても、千早が意外と協力的で良かったキュね!」
「……そうだなホッホー」
不安が多過ぎて考えることも辛いけれど、今は千早の考えに頼るしかない。キュウコは気丈に笑顔を作った。
「最初は冷たい人かと思ったキュけど、凄くやる気があるし、ちょっと口は悪いキュけど、実は良い子なのかもしれないキュね!」
「…………」
オウルンが暗い顔をし、テーブルに置いた食材を見下ろしていた。キュウコは眉を寄せてオウルンの顔を覗き込んだ。
「オウルン? どうしたキュか?」
「……キュウコ」
「キュ?」
「……ごめん、キュウコ。千早は……私のバディはキュウコが期待するような善人ではないホッホー」
「キュ……?」
キュウコはオウルンの肩に手を触れ、軽く揺さぶった。
「どうしたんだキュ? バディのオウルンがあの子を信じなくてどうするんだキュ!? きっと大丈夫だキュ! 千早はキュウコたちを救ってくれるキュ!」
「……いや、違うホッホー」
瞼を伏せ、オウルンはため息を吐いた。プロジェクトDの実行を提案し、昔から冷静な判断力で多くのハートフル戦士を導いて来た盟友オウルンが、疲れ果てたような顔をしていた。いったいどうしてしまったんだと、キュウコは思った。
「……私たちはハートフル戦士を起用するにあたり、適任とされた六人の少女の身辺調査をそれぞれ行ったホッホー」
「そうだキュ。キュウコは才子のことを調査したキュ」
キュウコは才子のことを細かく調べた。徐々に彼女の異常性が明らかになっていったため、接触し戦士にするかを迷っていた折、偶然ダークグラビティの襲撃に遭遇してしまったのだ。もしあの襲撃がなければ、キュウコはまだ千早を戦士にすることを迷っていただろう。
「私も千早のことを細かく調べたホッホー。どんな性格で、何をしていて、どんな夢を源にしてハートフルエナジーを持っているホッホーか……そしてわかったホッホー。千早がどんな子なのか」
「……でも、オウルンは千早を戦士にすることを決めたキュよね? だから接触して事情を説明したんだキュよね?」
オウルンは遠い目をし、リビングにある窓から外を見た。
「もう、それしかできることがなかったホッホー……」
「……オウルン」
「千早がハートフル戦士として戦う理由は、世界を救うためでも守りたい人がいるからでもないホッホー」
オウルンはキュウコの顔を見た。灰色の瞳に映っていたのは、諦めだった。
「千早の願い……ハートフルエナジーの源は、『渇き』だホッホー」
キュウコは首を傾げた。
「渇き……キュ?」
「ホッホー」オウルンは頷く。「千早はとても頭が良いホッホー。小さい頃から物覚えが良くて、お父さんとお母さんも賢い子が好きだったから、喜んで勉強を教えていたんだホッホー。ずっとずっと小さい頃から。両親が毎日くれる問題を、千早は喜んで解いていたホッホー」
床に目を落とし、オウルンは言った。心なしか声のトーンも下がった。
「でも、いつの間にか……解けない問題が無くなっていたホッホー」
「……キュ」
「両親が出題する問題にも限界が現れ始めたんだホッホー。やがて千早は自分が両親よりも頭が良いことに気がついてしまったホッホー。それからは自ら難問を探すようになったホッホー。小学生にして大学入試の問題を解き漁り、いろんな語学も覚えて、数学界の難題にもチャレンジし、ひたすらに問題を解き続けた」
豪邸ともいうべき神崎家には全てが用意されていた。これ以上ないほどの贅沢な暮らし。子供が欲しがる物なら何でも買い与えられる家庭であるはずだった。
ただ、千早が欲しがったのは子供騙しの玩具ではなかった。
「千早が嫌ったのは、退屈だったんだホッホー。……暇になったり飽きたりすることが、千早にとっては何よりも苦痛なんだホッホー」
有り余る頭脳を満足させるだけの難題。飽きさせることなく、暇を与えないほど夢中にさせてくれる問題。千早は幼い頃から、頭脳を使うことに何よりも快感を覚えたのだ。
「千早は求め続けていたんだホッホー。永遠に悩めるほど困難な問題を見つけることを」
もっと難題を。もっと難題を。もっと難題を。もっと私を悩ませてくれ。
両親が自分に問題を出せなくなってから、ずっと考え続けていたことだった。
「フランスの医学校の勉強も、ほとんど全部理解したから飽きてしまったと言っていたホッホー。答えが見えてしまったことに、千早は興味を注ぐことができないんだホッホー」
千早の頭の良さと、それに伴う異常性には両親も気づいていた。そのうえで医学校を継がせるために、両親は千早に医者の道を歩ませている。千早は既に医師免許を取得できるだけの学力があった。
休学中のあいだ、千早は父親のコネで調達した死体を相手に執刀の訓練を行っていた。リアルな時間のなかで知識を肉体に直接染み込ませる作業は、千早の知的探求心を慰め程度には満たしていた。既に生きた人間相手に手術を行っても良いレベルに到達しつつある。
「千早はダークゴットズとの戦いを、『難題』と受け取っているんだホッホー」
「戦いを……難題、キュ?」
「私たちは圧倒的劣勢だホッホー。絶望的戦力差をいかに埋め、いかなる戦略を立て、どうやって敵を倒すか……それを考えることを、千早は難しい問題を解くのと同じ感覚で楽しんでいるんだホッホー」
キュウコは冷や汗をかいていた。血の気の引いた顔でオウルンを見て、キュウコは呟いた。
「じゃあ……千早は誰かを救うためじゃなキュ……」
瞼を伏せオウルンは頷いた。畳み掛けるように、オウルンは悲劇的な事実を告げた。
「ダークゴットズを倒すという難題を解くまで……それに飽きるまで。千早は難題に取り組む快楽のためだけに戦うホッホー。そのためならどれだけの犠牲が出ようとも、どれだけの人々が死のうとも、千早は躊躇しないホッホー。千早は、これから集まる仲間のこともきっと駒としか思っていないホッホー」
地下室へ行く黒い鉄のドアを見つめ、オウルンは目を細めた。オウルンの寂しそうな声に、キュウコは胸が張り裂けそうになった。
「きっと……私たちのことも。道具としか思っていないホッホー」
♢
神崎千早の頭脳は天才と呼ぶに相応しかった。
3歳の頃、ベビーシッターに絵本を読み聞かせられていくうちに書かれている文字と音を覚えた。間もなく自発的に字を書くようになった。
千早の物覚えは異様に早かった。幼稚園を出る前に分数を理解し、漢字も覚え始めた。
父と母は大いに喜んでいた。将来は自分たちと同じように医者にしようと早くも決めたほどだ。
幼いながらに千早は飽きっぽかった。一度理解した公式で解ける問題には関心を示さなくなった。だからといって時間を置いても、公式や解き方を忘れることはなかった。
父と母にねだり、毎日問題を出してもらった。千早は毎日満点の解答を両親に渡した。やがて、両親が出す問題では満足しなくなった。家庭教師を雇ったこともあった、徐々に千早は手が付けられなくなっていった。10歳になる頃には、平凡な教師程度では千早の頭脳に及ばなくなっていた。
ある日父に告げられたことを、千早は今でも覚えている。
「ごめんな千早。もうお父さんは、お前よりも頭が良くないんだよ。千早の方が賢いんだ。だからこれからは、自分で解きたい問題を探しなさい。欲しいものがあれば、何でも買ってあげるから。色んな学校の受験問題も、お父さんの知り合いに頼んで貰ってくるから」
だから千早は必死で探した。飽きない問題。解けない問題。難しい問題。
足りない。足りない足りない足りない足りない足りない。
もっとだ。もっともっともっともっともっともっともっと。もっと私を満足させろ。飽きさせるな。考えさせろ。考えさせろ。寄越せ。寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ。
今はまだ、医者になるという目標がある。父の跡を継ぐという目標がある。期待には応えるつもりだ。でも、それにも飽きてしまったら? 医学を学ぶこの時間にも飽きてしまったら、私はどうなってしまう?
全てに飽きてしまった時、私は死ぬのではないだろうか。
恐ろしい。考えることができなくなるなんて、あまりに恐ろしい。だから考える余地を与えてくれる難題を、ひたすら求めた。
そして千早は、出逢う。
「私たちに、力を貸して欲しいホッホー。神崎千早」
誰も挑んだことのない超難問。
「世界を救って欲しいホッホー」
提示された、荒唐無稽なゴミみたいな問題。宇宙の外側の世界を探るような、何万年も前に死んだ人間の文字を解読するような、不可能に等しい愚問。
妖精が持ち掛ける未知の世界への好奇心から、試しにその敵とやらを見学しに行った。その現場で見出した希望。日ノ出才子という爆発物が千早に与えた衝撃。
正答率0%が、0.0000000000000001%になる瞬間を目撃した。
不可能ではない。この難問は解ける。考え続ければ、きっと答えを導き出すことができる。
予測もつかない、前例なんて当然無い、世界の危機を退ける活路を探るための、途方もない旅のような苦悩を与えてくれる難問だ。17年の生涯でこれほど心が躍る旅は無かった。
問題を解くことは千早にとって冒険だ。答えに辿り着くまでの過程が最も楽しい、スリリングな旅路だ。
世界を救う、それはまさしく大冒険。答えに辿り着くまでに、千早はどれほど苦しみ、迷い、悩み、考え、脳が蕩けるほど頭を使うのだろう。
「ふっ……ふふっ、ふふ……」
最高だ。こんなに脳が興奮する問題に直面したのは久しぶりだ。人生最大の超難問にぶち当たり、千早は歓喜していた。
「ふふふふ……あはっ、ふふふふ……っ」
パソコンの作図ソフトを用い、才子の血肉を元に戻すために必要となる型枠の設計図を描きながら、千早は股を手で探り自慰に耽っていた。
頬が紅潮し荒い息が漏れる。脳内麻薬と性的快感が交錯し体のあらゆる神経を敏感にし、中毒性を伴うどろどろとした深い悦びを千早にもたらした。久しぶりの難題を解きながら行う自慰はこれまでにない快感で千早の体を痙攣させた。
「はぁっ……は、はっ……はは、あはははは……っっ」
キーボードの上に涎を垂らし、千早は血走った目でディスプレイを覗き込んだ。答えに近いづいていく、答えが目の前で出来上がっていく――長い長い冒険の第一歩。
「やってやる……絶対に、解いてやる……」
息も体も脳も乱し、千早は快楽に没入しながら決心した。
必ずこの手で世界を救う。
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