【妖精】……ハートフルランドに住む神聖生物。ハートフルエナジーで組成されているが、通常の生物とほとんど変わらない。ハートフルエナジーを利用した魔法のような術を扱える者もいる(人間の姿に変身する術がこれに該当する)。ハートフルエナジーが尽きない限り不死同然だが、ハートフルエナジーの枯渇や物理的損傷により死亡する。
パパ、見て。
朝、パパがくれた問題解けたの。ほんとうだよ。
全部正解してる? やったあ。
パパ、もっとちょうだい。
もっともっと、難しい問題、いっぱいちょうだい。
この前言ってたそいんすうぶんかい? 教えて欲しいな。
え? あのCDはもう聴いたのって?
I remembered everything yesterday.
英語だっけ? あれもう飽きちゃった。
もっともっと。もっと難しい問題をちょうだい、パパ。
♢
ダークグラビティにより破壊された××町の隣にある、多くの大学や学生寮が密集し都心に比べ閑散とした雰囲気に包まれる■■町。多くの学生がバイトする小洒落た喫茶店やショッピングモールが点在するが、都心のような騒がしさはない。治安が良く近年これといった事件も起きていない。地元から離れ学生生活を始める若者には最適な環境と言える。■■町はそんな平和な町だった。
■■町を代表する学校の一つ、神崎医学校から僅か100メートルの距離に位置するささやかな林にまるで隠れ家のように覆われた、3階建ての高級住宅がある。外壁の色は白と黒に統一されており、豪邸ともいうべきスケールでありながらシンプルで質素な佇まいを保っている。門の表札には「KANZAKI」と記されていた。
門を抜け、パスワードで解錠できるオートロック式のドアをくぐると、まず広いエントランスがある。玄関に入ってすぐに大きな鉢が置いてあるが、観葉植物は既に枯れており変色した茎の一部しか残っていない。土を見ると、もう1年以上水を与えられていないことがわかる。
家のなかは高級な家具や家電が、なにか規則性を感じさせる配置で丁寧に整頓されていた。文明を謳歌することに完璧なまでに充実した家の中は、しかしどこか物静かなイメージを訪れた者に与えた。おそらく、それは家の外壁と同じくインテリアがほぼ全てモノクロで統一されているからだろう。モデルルームのように完全とも言える家具配置が成され、完全過ぎるあまり家具の一つでも動かすことが躊躇われた。
家の中には人がいなかった。本物のモデルルームのように、神崎家は無人だった。
エントランスを超えた先に、物静かな家の中で唯一異様な空気を放つ、見るからに重厚な鉄に扉があった。鉄の扉は指紋認証と虹彩認証システムでロックされていた。
分厚い扉を開くと、地下へ続く階段が現れる。そこから先は地上の家の雰囲気とは一変し、冷たく薄暗い不気味な空気が漂う。地下に降りるとそこに広がるのは、無数の精密機械と作業台に埋め尽くされたラボだった。
神崎家の一人娘、神崎千早は白衣を羽織り、生活のほとんどを過ごすデスクの前で回転椅子に座していた。
椅子のキャスターの傍には脱ぎ捨てられた靴が転がっていた。千早は椅子の上に膝を抱えて座り、デスクトップパソコンに向かってマウスを操作していた。千早はメールボックスを開き、内容がフランス語のメールを見た。黒縁の大きなブルーライトカット付き眼鏡のレンズに、文面が映る。ぱっと一読すると、千早はデスクの上にあるスマホを手に取った。
ある連絡先に千早は電話をかけた。このラボは地下だが電波は通る。
千早は電話相手と流暢なフランス語で話した。会話を短く終わらせ、電話を切ると千早は「めんどくせぇな」とぼやいてスマホをデスクの上に投げた。
彼女は椅子をくるっと回し、背後にある大きな四角形の透明なケースを眺めた。それは普段、ホルマリンに満たされている死体槽だった。中にあった死体を別の死体槽に移し、ホルマリンを洗浄して綺麗にしてあった。清潔な死体槽は、今は赤黒い液体や粘性の肉片、粉々になった人骨などで満たされていた。
ヒト一人分、形を失った日ノ出才子の全ての血肉が死体槽に収められていた。
階段から足音がした。椅子を回して階段の方を向くと、千早は不機嫌そうに眉間を寄せた。
「わあっ、凄いキュ!」
地上から階段を降りてきたキツネの姿をした二頭身のぬいぐるみ、もとい妖精のキュウコがラボを見渡して感嘆を漏らした。妖精の国ハートフルランドでは一度も見たことのない、人類の英知を結集されたメカに覆われた部屋をまじまじと眺める。いったい何の装置なのかは全くわからなかったが、この地下ラボが研究者にとって満ち足りていることだけははっきりとわかった。
キュウコの後ろに白いショートヘアの華奢な少女が付いてきていた。人の姿に変身したフクロウ妖精のオウルンだ。キュウコはオウルンとともにラボまで階段を下った。
「家の地下にこんな所がキュ!? 凄いキュね! まるで秘密基地だキュ!」
はしゃぐキュウコを睨み、千早は舌打ちした。苛立たし気にデスクを叩き、千早は怒鳴った。
「おい妖精、私は動物が嫌いだと言っただろ。私の前に立つ時は人の姿に変身しろ!」
千早の怒鳴り声にキュウコはビクッとした。「ヒッ」
「妖精のくせに変身もできないのか? ケダモノの姿で私のラボに入るな! 焼却炉にブチ込むぞ!」
「キュ~~!」
キュウコはオウルンに駆け寄り、足を伝って体を登った。オウルンの背中の陰から千早を覗き、キュウコは怯えた声を上げた。
「怖いキュ~。あんなに怖いのにハートフル戦士なんだキュか?」
カタカタ震えるキュウコの頭をオウルンが撫でた。申し訳なさそうに微笑してオウルンは言った。
「ごめんホッホー、キュウコ。でも千早の言うことを聞いて欲しいホッホー。人の姿じゃないと千早は本当に話を聞いてくれないホッホー」
「うぅ……わかったキュ……ちょっと疲れるけど、ハートフル戦士が望むのなら仕方ないキュ……」
渋々オウルンの背中から降りたキュウコの体が、ピンク色に輝いた。光に包まれた二頭身のシルエットが膨張しオウルンと同じほどの背丈になった。人型に変形したシルエットから光が弾け、華奢な少女が現れた。
キュウコが変身したのはピンク色の髪をした少女だった。足下に届きそうなほどのロングヘアは、ハート型のビーズが付いたヘアゴムで一つに束ねられていた。服装は白いYシャツの上に、ピンク生地にキツネの刺繍が施された和風の羽織、赤いミニスカート。スカートの背面には九尾模様の刺繍がある。履物は白い足袋と草履だった。
「久しぶりにやったキュ~……」
金色の瞳をぱちくりさせ、キュウコは変身した自分を眺めた。
「上手くできてるキュか~?」
恥ずかしそうにほんのり顔を赤くするキュウコにオウルンが言った。
「ちゃんとできてるホッホーよ、キュウコ」
「そうかキュ?」
ハートフルランドの妖精は、人の世界で活動するために変身する術を身につけている。この変身とは思いのままに姿を変えるわけではなく、自身の概念を人間の形に変換する、という形式であるため、変身した姿はその妖精が「もし人間に生まれていたら」どんな容姿だったかを完全にシミュレートしている。
衣服は体毛をハートフルエナジーにより変換したものであるため、ある程度ファッションは自由に操作できる。とはいうものの、色や柄は本人の性格や好みが強く反映するので、「らしさ」というものは否応なく現れた。
この精神性がファッションに反映されるメカニズムは、ハートフル戦士の変身コスチュームにも言えることである。であるならば、変身してもコスチュームが一切変わらなかった才子は、ある意味最も純粋で透明な精神性を持っていたのかもしれない。
(いや……「持っていた」ではないキュ!)
キュウコは顔をあげ、ドロドロになり死体槽に入れられた才子を見た。才子はいま否定のしようがなく死亡していたが、千早が言うには復活させることは可能だという。
俄かには信じ難いことだが、キュウコは千早が口にする可能性にすがるしかない。妖精がハートフル戦士を信じなくてどうする。キュウコたち妖精は、いつだって希望に満ち溢れた少女たちを信じてきた。それがたとえサイコパスだったとしても、今のキュウコたちは彼女たちにすがるしかないのだ。
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