また一棟、ダークアクアがビルを倒壊させた。崩れ落ちるビルの震動がここまで響く。建物内にいた人や、瓦礫が降り注ぐ道路にいた人々が死んでいく。ランとロケロンが話すこの数分で、既に何百人が死んだことか。
それを理解したうえでランは、戦う意味に疑問を持った。
「どうせ、助けたところで人はいずれ死ぬじゃないですか。頑張ったところで、夢を抱いたところで、喜んだところで、幸せになったところで……結局、人はみんな死ぬじゃないですか。それに意味なんてありますか?」
人は呆気なく死ぬ。ランの両親のように。どんな顔をしていたのかさえ、娘に覚えられもしない虚しい死に方。彼らに生きた意味などあったのだろうか。彼らがランを産んだ意味などあったのだろうか。
「生きることに、意味なんてありますか、ロケロン。……わたしが祈ることに、意味なんてありましたか?」
鋼鉄の折れ曲がる強烈な不快音。折れ曲がったビルが隣のビルに衝突し、ドミノ倒しに崩れていった。震動が路上を満たす水面に波紋を起こした。
ランはロザリオを手放そうとした。
沈黙を破り、ロケロンがぽそりと言った。
「ランは――そんなに生きたのかケロ?」
ロザリオを捨てようとしたランの手が止まった。光の無い目で、ランはロケロンを見た。
「……はい?」
ロケロンのくりくりした大きな瞳が、まっすぐランを見つめていた。懇願や焦燥ではない、それはロケロンのどこまでも純粋で素朴な問いだった。
「意味が無いって……決めつけられるほど、ランは長く生きたのかケロ?」
「…………」
「そんなに色んなものを見たのかケロ?」
「……何を目にしても、わたしは感動しません。経験してもしなくても、同じです」
「本当かケロ? 本当に、ランは全部同じように何とも思わないのかケロ? この世界は広いのに、もう諦めるケロか?」
「……………」
「ランは――」
いつも同じ夢を見る。お父さんが運転する車の後部座席でわたしは寝ていた。
目を覚ますと屋根がなくて、シートもちぎれていて。
お父さんとお母さんの首がなかった。
それから、ずっと、彼らの顔が、
「ランは、まだお父さんとお母さんの顔を思い出せてもいないのに……思い出す前に、死んでもいいのかケロ?」
ロケロンはランに駆け寄る。つぶらな瞳が、強い眼差しでランを見上げた。
「神様を信じる前、ランはそれが自分の救いになるとわかっていたかケロ?」
気がつくと、ランはロザリオを強く握りしめていた。裂けた皮膚から血が流れた。足下の水に、ランの血がしたたり落ちる。
ロケロンは首を傾げる。
「わからなかったはずケロ。それが自分にどんなことをもたらすか、祈るまでは何も気がつかなかったはずケロ! 全部同じケロ!」
ロケロンはハートフルフォンを掲げた。懐かしいような、鳥肌が立つような、いつぶりかという奇妙な感覚がランを襲っていた。
「やってみなきゃわからないケロ……まずやってみて、意味を決めるのはそれからでも遅くないケロ」
初めて、神に祈ることが救いだと思った時。
両親の顔を思い出すために、絵を描き始めた時。
その行為がランにとって何らかの意味をもたらした、遠い過去の心の機微だった。ランの空洞は、あの時確かに動いたのだった。
「何も感じないのなら、後悔もしない……それなら、一度でいいから、僕と一緒に戦って欲しいケロ! 自分のためでもいいから! ……お父さんとお母さんのためでもいいからっ!」
空っぽの心を埋めるのは、かりそめの信仰心だけでなくてもいいのではないだろうか。
ランの信仰心は、たった今砕け散った。教会と友を失くしても動かない心が、信仰心が嘘っぱちであることを証明してしまった。
それなら、今度は別の何かにすがっても、いいだろうか。また、いずれ、信仰心のように裏切られるとしても。
ロケロンの言う通り、きっと、また失った時も、わたしは悲しまない。
「……両親のために、ですか?」
考えたこともなかった。両親の顔を思い出すのは、自分のためだと思っていた。
彼らのために、ランにできることはあるだろうか。死んでしまっている人のために? それこそ無意味だ。
ならばその死に、意味を持たせることはできるだろうか。
死に意味を持たせるとは、つまり生に意味を見出すということだ。彼らが生きたことに意味を与えることができるのは、ランだけなのではないか?
たとえ彼らの顔を、一生思い出すことができなかったとしても。
ランが生きることや、ランが選ぶ行動そのものが、彼らが生きて死んだ意義となるのではないだろうか。
両親の顔を思い出そうとする本当の理由をランは直視したことが無かった。心を失くす前の自分を取り戻したかったからではない。
愛したかったのだ。彼らのことを、両親のことを。
「……ロケロン」
ただの一度も、ランは、両親のために祈ったことがない。
今からでも遅くないのなら、彼らのために祈ることにも、もしかしたら意味があるのかもしれない。
わたしから心を奪い去ったのが彼らなのだとしたら、わたしに心を与えるのもまた、彼らに違いない。
「……そうですね」
目を覆っていた曇りが、消えた気がした。
まるで、初めて晴れた空を見たような、爽快な気分だった。夜明けの瞬間を目にしたような、高揚だった。満開の花を愛でるような、喜びだった。日差しにほほ笑むような温もりだった。
そうか、知らなかった。
太陽は眩しく、花は美しく、陽だまりは温かい。
ランは空を見上げた。よく晴れた青空だった。
知らなかった。
「空は……こんなにも綺麗だったんですね」
わたしは何も感じなかったのではない。何も見ようとしていなかった。何も感じようとしていなかった。
両親を喪ったあの日から、ランは世界を心に投影することを拒んだ。記憶にさえも蓋を閉じ、何もかもを自分の中から追い出した。心にかけた鍵を今、ランはほんの微かに開いたのだ。小さな扉の隙間から差し込む光が、ランの中の空洞を照らしたのだ。初めて目を開いたみたいだった。
こんなにも、世界が見える。
「どうせ、やりたいことも、夢もありませんからね。あなたの口車に乗せられてみましょうか」
お父さん、お母さん。あなたたちのことを思い出せなかったとしても。
あなたたちを想い、あなたたちの生きた証となるような生き方を――わたしは、示せるでしょうか。
「やってみなければ、わからないですもんね。ロケロン」
ランはロケロンからハートフルフォンを受け取った。ロケロンは笑顔で頷いた。
「そうケロ!」
たとえば、わたしが世界を救えたとしたら。
それはあなたたちが救ったことにも、なるでしょうか。
そうだといいと、心があったなら、わたしは思います。
「主よ、わたしをお守りください」
ロザリオにキスし、ランはハートフルフォンとともに握りしめた。鋭く開いた眼を、水を操り街を蹂躙するダークアクアへ向けた。
血のついた指でハートフルフォンの画面をタッチし、ランは言い放った。
「ハートフルチェンジ」
全身から溢れ出たハートフルエナジーが強烈な光となり、天を穿った。
視界に収めきれないほど高く昇る光に、ダークアクアは気がついた。兜の中で光る青い眼が、ギロッと遥か先にいるランを睨んだ。
『ハートフルエナジー!? 何テ強イ力ナンダ……! アレガダークグラビティを斃した戦士カ!?』
己の信仰心が虚構であるとランは気がついた。しかし、その胸から湧き出るハートフルエナジーに揺らぎはない。
何故なら、ランのハートフルエナジーは彼女が抱いた新たな願いと希望から生み出されていた。夢の無い彼女が抱く夢——両親が生きた証を遺すという、儚くも純粋な願いだった。
ランにとっては、滑稽なほどあまりに襲い原点回帰だった。しかしだからこそ、ランのハートフルエナジーは強く、熱く、燃え盛っていた。
『変身スル前ニ殺シテヤル!』
ダークアクアが両手前に突き出す。ビルを破壊していた水の大蛇のうち3つがぐるっと向きを変え、ランがいる道路へ飛び込んでいった。
『死ネエエェェェッ!!』
3本の大蛇は絡み合い、一つの束に融合し、巨大な水の鞭となった。光を放つランに、ダークアクアの巨大な水の鞭が襲いかかった。
水の鞭がランを叩き潰そうとした、その瞬間。天を貫いていた光がひと際強く輝いた。眩しさに、堪らずダークアクアは顔を腕で覆った。
『コレハ!?』
次に前を見た時、ダークアクアは青い眼を丸くした。
『ナニ!?』
ランを襲った水の巨大な鞭が断たれていた。ランに届く寸前の所で切断され、切り離された分の膨大な水が道路上にぶちまけられていた。
何が起きたか知るために、ダークアクアは水の鞭を一旦退かせた。ダークアクアが叩き潰そうとしたその場所に、彼女はいた。
『……貴様……ッ!』
ハートフルエナジーの光が消えた。そして、美しく、清らかで、神々しい姿を……それは晒した。
白いウィンプルの上に被った黒いベール、ゆったりとしたベールと同色のワンピース。修道服を基調としたコスチュームには、腰にあるハートフルフォンを収めたポーチも含め、各所に金色の十字架があしらわれている。踵が針のように尖ったヒールの爪先にも十字架が装飾され、首からはロザリオを提げていた。
両手に白い手袋。十字架型のピアス。青い瞳孔は十字架の形をしている。僅かな違いはあるものの、その姿は間違いなくシスターの装いだった。
「ケロ……!」
美麗な姿に見惚れ、ロケロンは感動と驚きに大きく目を見開いていた。変身したランは、想像以上に強い力を秘め、そして美しかった。
通常のシスターとは決定的に違う点が一つ。
変身したランの右手には、全長2メートルを上回る大剣が握られていた。
黒い革で編まれた柄は非常に長いうえ、刃の幅もかなり広い。その巨大で異様な剣は、どう見ても人を斬るためのものではなかった。
強大な怪物を相手とすることを予見して造られたかのような、長く重厚な大剣。百キロを軽く超えるであろうその大剣を、ランは片手で軽々と握っていた。
崩壊した街にそびえる、水の柱の上から殺気を放つダークアクアを、ランは十字架型に輝く碧眼で見据えた。
大剣を片手で構え、ランは微笑を浮かべた。慈愛に満ちた、まるで聖女のような柔らかなほほ笑みだった。
第3のハートフル戦士——サイコ・ブレイド
「さあ、裁きの時間です」
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