水の竜が、流水音に似た咆哮を上げ、ランへ突撃した。そのスピードは水の大蛇を大きく上回り、さらに複雑にくねりビルの間を縫って動いていたため、軌道は予測できなかった。
みるみる迫る水の竜に対し、ランは足を止めた。が、引き返して逃げるわけではなく、防御態勢をとるわけでもなかった。
爪先で水位のある路上をトントン、バシャバシャと蹴り、ランは「いいですね」と頷いた。
「このヒールにも、慣れてきました」
水の竜は、雄叫びとともにあと50メートルまで近づいていた。接触まであと2秒。竜の水晶のような眼球に、ランの微笑する顔が映り込んだ。
「そろそろ、走りましょうか」
ヒールの踵がアスファルトにめり込む。
水の竜が鋭い牙を閉じ、バクンとランに噛みつきかかったその瞬間、ランは高く跳躍して竜の鼻面に着地した。
「くすっ」
着地するや否や、ランは猛スピードで竜の上を走り出した。頭から首へ降り、背びれの生えた体を駆け抜けて行く。
『ナ!?』
ダークアクアは驚愕した。
走力そのものは、通常のハートフル戦士と変わらない。着目すべきはランの度胸だった。読めない動きで迫る高速の巨大な竜に、全く臆することなく正確な回避をし、あまつさえその上を駆ける度胸。肝が据わっているにもほどがある。
『アノ女、死ヌノガ怖クナイノカ!?』
イエス。鶴来ランに恐怖はない。
右手が尾に繋がっているダークアクアのもとまで、ランは竜の上を猛進した。距離は既に400メートルを切った。
水の竜が首をくるっと振り向かせ、ランを背後から追った。大口を開け、頭上からランにかぶりつく。
竜の首が噛みついて来る直前に、ランは立ち止まった。紙一重で、ランの手前に竜の牙が飛び込んだ。
竜が牙を閉じるその刹那、ランは巨大な口の端に大剣を突きたてた。
「クスリ」
ランは竜の口を胴の方へ掻っ捌いた。開いた傷から体内に潜り込み、大剣を突き立て首の内部を一周した。
竜の首に空いた傷から、ランが外へ飛び出した。竜の首が斬り落とされ、頭部の形が崩れてただの水に戻った。
ランは竜の背びれに沿って、突き刺した剣を引きずりながら再び疾走した。
『!? ナンテヤツ!?』
ダークアクアに近づくにつれ、竜の体は細くなっていく。あと60メートルまで達した時、ランは竜の尾を切断した。背後の竜がただの水に還り、ランは大ジャンプしてダークアクアの眼前へ辿り着いた。
両手で柄を掴み、ランは大剣を振り上げた。
「こんにちは♪ あなたは、神様を信じますか?」
ダークアクアが急いで合掌し、新たな水を生成する。
ランとダークアクア、両者の瞳から光が走った。ランは大剣をダークアクア目がけ振り下ろした。
神崎千早は、ランとダークアクアの戦火に巻き込まれない程度の距離まで接近していた。戦闘に集中しているダークアクアが千早の存在に気付く危険は低い。ランにのみに集中し、存分に力を振るうダークアクアを分析する余裕は充分だった。
「……ふむ、なるほど」
千早の視線の先で、ランとダークアクアがとうとう間近で対峙した。顎に手をあて、千早は何かに得心がいったように頷いていた。
「あいつの力、だいたいわかった」
腰にポーチに、千早は手を伸ばした。
絶好のタイミングで振り下ろしたはずのランの大剣は、しかし跳ね返されていた。掌を痺れさせる硬い感触に、ランは目を丸くした。
(硬い……水じゃない!?)
否、それは水だった。
ダークアクアが開いた左右の掌の間を、水流が帯状に高速で行き来していた。流水速度はマッハに達し、キーンと甲高い音が耳を劈く。
マッハで流れる水の帯を通し、ダークアクアの双眸がギラリと輝いた。
『流水剣』
身をよじり、ダークアクアは水の帯でランに襲いかかった。ランは頭上に跳ね返された大剣を再び振り下ろし、ダークアクアの攻撃を防いだ。
ガキィィンと激しい衝突音とともに、ランは後方へ飛ばされた。空中でバク転し、ランは地上へ着地した。
(高圧水流……ウォータージェットのようなものですか……!)
水とは、脅威の物質である。
ただゆっくりと触れ、掬う程度ならばあらゆるものを優しく包み込む柔らかい物質だ。しかし速度と圧を増した時、水は恐るべき兵器と化す。
水切りで石が水面を跳ねるように、高所から水面に落下することが危険なように、加圧された瞬間、水は圧倒的硬度を持ち、鋼鉄となる。
ダークアクアの両手の間を移動する水はマッハ5に及んでいた。これは人類が生み出したウォータージェット切断機の速度マッハ3を大きく上回る。ダークアクアが手にした『流水剣』は、もはや水ではなく一本の鋼鉄の剣だった。
水の柱の中に潜ると、ダークアクアはエレベーターのように地上まで一気に降下した。柱が崩れ、空中を舞う水がとぐろを巻き、ダークアクアの右手に集まった。ラン目がけ、ダークアクアは右手に集めた水を高圧で発射した。
「おっと!」
ランは上体を横に逸らして高圧水流を躱した。ランの耳を掠めた高圧水流は、背後にある外灯を貫き半壊したビルを直撃した。穿たれた新円の穴から、ビルの向こう側の景色が見えた。
ダークアクアの両手に、それぞれ一つずつ水の球体が生成された。球体から剣の形をした高圧水流を放出し、ダークアクアは流水剣を二刀流で構えた。
ランは大剣を緩く握って構え、左手は柄頭に軽く添えた。水流は遠のくほどに速度を落とす。水の剣が鋼鉄の硬度を保つのは、幅もあるためせいぜい1メートル程度だ。大剣を持つランはリーチで優位に立つが、ダークアクアには二刀流という手数があった。
ダークアクアはじりじりとにじり寄った。ランは微笑を浮かべつつ、鋭い眼でダークアクアを睨んだ。
踏みしめたアスファルトをボコンと凹ませ、ダークアクアがランに仕掛けた。右手の流水剣で頭に、左手の流水剣で胴に斬りかかる。ランは十字架型の瞳を素早く左右に交互させた。
ランは剣先で頭部を襲った流水剣を抑え、柄頭で胴に迫る刃を防いだ。大剣と衝突した流水剣から水滴が弾け飛び、柄が切断された。そこでランは大剣を手放した。
流水剣に弾かれた大剣が水平に回転する。回る大剣の下をくぐり、ランはダークアクアの懐へ踏み込んだ。
『ム!? 獲物ヲ捨テタ……!?』
軸足をキュッと回し、ランはダークアクアの顔面にキックを浴びせた。蹴りとは思えない、鋼同士が衝突したような激しい音が鳴った。
水浸しの路上に、ダークアクアの兜の一部が落ちた。ハイキックを放った姿勢のまま、ランは穏やかな声を発した。
「わたしも毎週見ていたんですよ、変身ヒロインのアニメ。小さい子供たちと一緒に。それで、ずっと思っていたんです。なんで戦うのに、画面の中のあの子たちはヒールなんて動きにくいもの履いているんだろう、と」
ランはクスっとほほ笑んだ。
「今、わかりました。きっとこうするためです」
『……ガ……ッ』
ランの鋭く尖ったヒールは、ダークアクアの右眼を貫き、兜を抉っていた。兜の後ろから、ヒールの先端が飛び出していた。
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