会話の主はだんだん階段を上がってくる。皐月さんの噂話……? 私はとっさに眞矢の腕を掴み、階段の途中にあるトイレの中に引き込んだ。鍵を閉めてドアに耳を当て、噂話の続きを盗み聞きする。
「付き合った後輩みんな病んでくって相当じゃん!」
「一番酷かったオチは相手の子が鬱になって自主退学でしょ?」
付き合った後輩がみんな病んでいく……? 相手が鬱病で自主退学……? 驚くべきワードが飛び交い、私と眞矢は顔を見合わせる。
「女子校でも居るんだね、そういうの!」
「女子校だからじゃん? 男が居たら男の方がいいし」
「ちょっとボーイッシュなだけで別にそこまでかっこよくないよね~!」
会話の主たちは好き勝手なことを言いながら階段を上っていった。この先の廊下で練習している皐月さんの耳に入らないことを願うばかりだ。いや噂の内容が本当なら自業自得なのだろうが。
「蛍、今のどう思う?」
眞矢は小声で私に訊ねてくる。
「どうも何も……きな臭い感じはしてきたわね」
「これ部外者の私たちが深入りしていいの? 変なことに巻き込まれたら推薦取り消しだよ?」
「そうね……」
依頼者は皐月さんの噂を知っているのだろうか? だとしたらあの時に言いかけた言葉の続きはきっとこれだろう。「もし皐月先輩に彼女が居ても――」「その人は存在しないことにしてください」とか。それならば、皐月さんの事情を深掘りしても何のプラスにもならない。かえって依頼者の心を傷つけるだけだ。
「皐月さんについて調べるのは、ここまでにしましょうか」
帰宅した私はPCにDVDを入れ、その内容を見ていた。吹奏楽部の部室から借りてきた過去の定期演奏会の映像だ。
結局私は皐月さんについて調べることから手を引き、別の角度から攻めることにした。彼女の内面を暴くのは誰の為にもならない行為だと思った。それは勿論、クオリティを妥協したくない私自身にとっても。
依頼者が期待するのは「理想の皐月先輩と理想の自分の間での恋愛」であって、真実を詳らかにすれば絶対に嬉しいだなんてことはない。綺麗な上澄みだけを掬って濾過して凝縮する、それが「夢を見せてあげる」という行為だ。
定期演奏会でフルートのソロを披露する皐月晃はまさに理想の先輩そのものだった。親しみやすくて軽い感じの人がここぞという場面ではきっちり役目を果たす、漫画のキャラなら常套手段だろう。みんながその人を好きになる演出だ。それを故意か無意識かは別として、皐月晃は体現している。同じパートに属する後輩の目というフィルターを通して見たのなら欲目で魅力倍増だ。惚れるのも無理はない。
皐月さんの容姿、鋭い視線、フルートの指捌き……そういった見て分かる部分の特徴を手元のメモ用紙に書き出し、夢小説のストーリーを大まかに構築した。これならそう難しくはないだろう。夕食と入浴の間にプロットを練り、再びデスクに着席した私は一心不乱に物語を書き始めた。
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