〈来蘭side〉
「来蘭ー?あたし今日日直だからもう出るよー?戸締り頼むねー!」
バタバタと加奈は出掛けて行った。
昨日の歌録りは最悪だった...
録り直しすればするほど声は出なくなっていった...昨日のうちに録り終わるはずだった曲は、翌日に持ち越しになって夜中にやっと終わった。
家に着くと、加奈はもう眠っていた。
音を立てないように気を使いながら、バスルームの扉を閉めた。
洗面台の鏡に映るのは、目の下にクマができて酷い顔をしたわたしだった。
シャワーを浴びながら、今日録り終わらなかった曲を声に出してみる...
「......」
え?
もう一度...
「......」
声が...出ない...
(「加奈!」)
(「助けて!」)
ただ空気だけが漏れて言葉にならない...
これは声が枯れたとかではない...
どうしよう...
シャワーに打たれながら泣いても、泣く声すら出ない...
翌朝わたしは、レコーディングスタジオへは11時の予定だったから、先に学校へと出掛ける加奈の様子をベッドの中で伺いながら、まだ寝てるフリをしていた。加奈が出掛けてしまってから、重い身体を起こした。
声を出してみる...
やはり声は出ない...
10時にはマネージャーさんが迎えに来てしまう...
その前に逃げないと!
だけど逃げるってどこへ...
無意識にここへ来ていた。
なんだか少しこの匂いが懐かしい...
〈リハビリルーム〉と書かれた扉をそっと押し開け、沢山のリハビリに励む患者さんの中に彼の姿を見つけることは容易いことだった。
(「紫音先生!」)
声にはならなかったのに、先生は振り返った。
もうその瞬間に、大量の涙が溢れてきていた。
「来蘭!どうした!」
わたしはもう無我夢中で泣きながら紫音先生に駆け寄った。
(「助けて!声が出ないの」)
伝えたいのに、声にならない...
ただならぬ状況だと察した紫音先生は、部屋の隅に連れてきてわたしを落ち着かせた。
声が出ないことをどうやって伝えたら...
あ、スマホ!
スマホのメール画面に文字を打って紫音先生に見せた。
『声が出なくなってしまって、逃げてきた。助けて』
それを見た紫音先生は、何も言わずにわたしを抱きしめた...
「それで俺のところへ来たのか...よく来た...よく来たな...えらかったな...」
抱きしめられながら耳に届いた紫音先生の声は、心なしか涙声だった。
(「逃げてきちゃった...どうしよう...きっとみんな心配してる...」)
スマホの画面に打った。
「心配すんな...瀬名に俺から連絡してやるから...今日はここに居ろ...」
わたしはコクんと頷くと、目の前に居た紫音先生に抱きついた...右耳を当てた先生の胸から聞こえる心臓の音は、わたしを落ち着かせた。先生はそのまましばらく黙って抱きしめて、髪を撫でてくれた...
紫音先生がリハビリトレーニングの仕事をする姿を、部屋の隅に置いてある鍵盤キーボードの椅子に座って眺めていた...
気が付くとわたしは、リハビリトレーニングをする紫音先生の側で、アシスタントをしていた。
午前中のメニューがすべて終わる頃には、じっとりと額に汗が滲んでいた。
「ほら、飯食いに行くぞ!」
紫音先生に連れられて病院内の食堂に来ると、食券機の前で
「好きなもの食え」
と言う紫音先生。
ぶっきらぼうだけど、どこか優しいこの感じが、あの頃心地よかったことを思い出す...
「おばちゃーん!今日の定食なにー?」
でっかい声で聞いてる。
「今日はあんたの好きなアジフライだよー!」
おばちゃんからもでっかい声が返ってくる
「やった!アジフライだって!」
子供みたいな顔して喜ぶ紫音先生が、なんだか可愛かった。
「来蘭も食え!美味いから!」
好きな物食えって言ったのに、先生は定食の食券を2枚買った。
陽当たりのいい窓側の席にトレーを2つ並べて座ると、
「ほら、これ好きだろ?俺のもやるよ」
と言って、『桃ゼリー』をわたしのトレーに置いた。
あの頃、この『桃ゼリー』をよく持ってきてくれたっけ...
不意に溢れた涙を慌てて拭うと、紫音先生はわたしの頭をくしゃくしゃっとして
「ほら、食え..食えば元気出る...」
そう促されて食べたアジフライは本当に美味しくて、その美味しさにまた涙が出た。
「よく逃げてきたな...」
黙々とアジフライを食べながら、紫音先生は言った。
「メジャーデビューに向けて動き出したのは、こないだ瀬名と一緒に咲の墓参りに行った時に聞いてたよ。まだレコーディングも始まってもいないのに、いろんなタイアップは決まってる、何十本ものライブツアーも決まってる、瀬名は嬉しそうに俺に話していたけど、俺はお前のことだけが心配だったよ...」
そこで初めて箸を止め、わたしの目を見つめると
「お前が全部を背負ってしまって、人知れず泣いてるんじゃないかって...」
また涙が溢れてきたけど、そのままにしてわたしは口いっぱいにアジフライを頬張った。
その膨らんだわたしの頬っぺたを
「お前リスみたいだな」
なんて言いながら紫音先生はつんつんして
「よく逃げてきたな...」
もう一度言った。
「あれ?もしかして来蘭ちゃんじゃない?」
声を掛けて来たのは、そうちゃんのお母さん、春子さんだった。
「佐野さん!いい所に来た!」
そう言って紫音先生は立ち上がると、春子さんと少し離れた所で話し出した。
程なく2人して戻って来た紫音先生に
「来蘭、午後は少し春子さんの病棟、小児病棟に行ってこい。夕方には迎えに行ってやるから」
と言われ、コクっと頷いて返事をしたわたしに、春子さんは
「ちょっとあたしの手伝いしにいらっしゃい」
そう言って微笑んだ。
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