穏やかに、リディアを諫める若い男性の声がした。我に返った彼女が、声のした方を振り返ると……。
「ジョン! 無事だったのね! よかった……」
馬に跨った、傷一つ負っていないジョンの姿がそこにあった。馬車からカルロスも降りてきて、リディア達に会釈する。
そして、ジョンの後ろには縄で縛られている黒装束の男が一人、馬に乗せられている。おそらく、甥であるカルロス王子を亡きものにしようと、サルディーノが差し向けた刺客だろう。
その刺客が捕えられたということは……。
「ご安心下さい、姫様。カルロス様もご無事ですよ。任務は無事遂行致しました」
「リディア様、申し訳ありません! 伯父のせいで、デニスどのがケガを」
「カルロス様……。ご無事でよかった……」
安心して力の抜けたリディアの手から、カランと音を立てて剣が滑り落ちた。
――そして……。
「陛下、姫様! 不審な男を発見し、捕えました!」
一人の兵士が、町外れの木陰から縄で縛った黒装束の男を連行してきた。その男の服装は、ジョンがシェスタで捕えてきた男のものと瓜二つだ。
捕縛された二人の刺客を見て、サルディーノはがっくり項垂れる。彼はそこで、自分が皇帝父娘に嵌められたと悟ったのだろう。
だが、そこでリディアの記憶は途切れた。
――ドサッ!
彼女は憑きものが落ちたように、意識を失いその場に倒れ込んだのだ――。
****
――あれからどれだけの時間、意識を失っていたのだろう? リディアは、額に何か冷たいものが触れる感覚で意識を取り戻した。
「リディア! よかった、気がついたか」
「……デニス?」
まだボーッとする意識のまま、彼女の目に映ったのは愛しい人の顔だった。
そして、もう少し意識がはっきりしてくると、自分の周りに視線を巡らす。
見慣れた部屋の天井に、肌触りのいい寝具の感触。それに、デニスの手には水で濡らしたタオル。服も寝間着に変わっている。
どうやらここは寝室のベッドの上で、自分はいつの間にやら外からここへ運ばれてきて寝かされていたらしい、とリディアには分かった。そして、意識が戻る前に感じた冷たい感触は、デニスが濡らしたタオルを自分の額に当ててくれていた感触だということも。
窓の外はもう真っ暗で、下弦の月が浮かんでいる。
「……デニス、お水ちょうだい」
ベッドサイドに置かれた水差しを見て、リディアは喉の渇きを訴えた。そういえば、昼食後はずっと飲まず食わずだったのだ。
「ああ、水な。――起きられるか?」
「ええ、大丈夫」
一人で起きようとする彼女の背中を支えてから、デニスは水を注いだグラスを彼女の手元へ持っていく。
リディアは小さなグラスの水を、一気に飲み干した。それだけで、血の気を失っていた彼女の頬に、みるみる赤みが戻っていくのがデニスにも分かった。
「もう一杯飲むか?」
「ううん、もういいわ。ありがとう」
彼女は空になったグラスをデニスに手渡しながら、微笑む。そして、気を失う前の最後の記憶がふと蘇る。
「――ねえ、デニス。あの後、サルディーノはどうなったの?」
リディアは刺客が捕えられた直後に気を失って倒れたため、その後の記憶が全くないのだ。
「あのオッサンは、あの後すぐに強制送還を命じられたよ。で、この国の法では裁けないから、国に還されてから、あの王子が責任持って裁くってさ。国王として」
「カルロス様、『国王だ』って仰ったの?」
「ああ。あの伯父貴に面と向かって啖呵切ってたぜ。『スラバットの国王は伯父上ではなく、自分だ!』ってな。立派だったぜ」
それを聞いて、リディアは安心した。これでもう、スラバット王国は大丈夫だ。
「その後、大変だったんだぞ! 気を失ったお前を、ジョンと二人がかりでここまで運んできてベッドに寝かせたんだからな。――着替えは……、エマに任せたけど」
「そ、そう……」
デニスが頬を朱に染めて言うので、リディアもつられて顔を赤らめた。いくら幼なじみで恋人でも、彼に下着姿を見られなくてよかったと、こっそり思う。寝間着姿なら、もう見せ慣れているけれど……。
そこで、デニスが腕に傷を負ったことを思い出したリディアは、包帯が巻かれた彼の右の二の腕に目を遣った。
「デニス、傷の具合はどう? まだ痛む?」
「大丈夫。こんな傷、大したことねえって。毒も塗られてなかったし、ちゃんと医官に手当てもしてもらったし。あとは熱が下がれば心配いらないってさ」
「よかった……」
安堵の呟きを漏らした途端、リディアの両目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……リディア? おい?」
そのまま堰を切ったように泣きじゃくる彼女を見て、デニスは戸惑う。
いつもは強く、気高く、凛々しいリディアの涙を、彼はもう何年も見たことがない。
幼い頃には、彼女もよく泣いていた。けれど、成長するにつれ、次期皇帝としての自覚が強くなった彼女は幼なじみのデニスやジョンにさえ、涙を見せなくなったのだ。
「デニスがケガをした時……、わたし……、デニスがいなくなったら、って考えて……。あなたが死んでしまったら……、わたしはもう、立ち直れないから……。だから、あなたが無事で、本当によかった……」
しゃくり上げながら、自分の心の中を吐露するリディアに、デニスは優しく相槌を打ち続けていた。
彼女がサルディーノを殺そうとしたのも、父や自分の制止を聞き入れなかったのも、頭に血が昇っていたせいだと思えば、デニスにも納得できた。――ただ、自分の声ではなくジョンの声で彼女が正気に戻ったことだけは面白くないけれど……。
一頻り泣いてしまうと、リディアは指で瞼に溜まっていた涙を拭った。
「――でもわたし、これで確信したわ。デニスへの想いは単なる幼なじみへの情愛なんかじゃなくて、本物の愛情なんだ、ってこと」
「え……?」
「お父さまやジョンや、他の親しい人が死んでしまっても、わたしはきっと泣くと思う。でも、もしもあなたが死んでしまったら、わたしはもう二度と立ち直れない。傷を負っただけでこんなに気を失うほどのショックを受けたのは、あなたを心から愛しているから」
リディアは今朝まで悩んでいたことを、初めてデニスに打ち明けた。自分の想いが、本当に恋心なのかどうか自信が持てなかったのだ、と。
そして、サルディーノには図星をつかれたから余計に悔しかったのだ、ということも。
「デニス、わたしはじきにお父さまから皇位を継いで、皇帝として即位することになると思う。その時には必ず、あなたに側にいてほしいの」
他の人ではダメだ。近衛兵としても、夫としても、一緒にいてほしいのはデニスだけ。
「もう敬語なんていらない。生きて、ずっと側にいて。わたしを支えていて。お願い」
それは事実上、リディアからの求婚の言葉だった。デニスは彼女をしっかり抱き締め、それに答える。
「約束するよ、リディア。オレはずっと、お前の側にいる。ずっと支えていくよ。絶対にいなくなったりしねえから、安心しろよ」
「はい……!」
愛しい人の胸に顔を埋め、リディアは嬉し涙を浮かべながら頷いた。
――と、そこへドアを叩く音がして……。
「や、邪魔してすまない。――リディア、もう起き上がって大丈夫なのか?」
「お父さま」
「イヴァン陛下」
入室してきた父に、目を瞠ったリディアは慌てて居住まいを正した。デニスなんか、彼女以上に畏まっている。
「ええ、もう大丈夫でございます。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
「いやいや、楽にしていてよい。そなたが元気になってくれて安心した」
そう言って胸を撫で下ろすイヴァンの表情は、一国の主ではなく一人の父親のものだった。
「――ところで、だな。カルロスどのが、急きょ帰国の予定を早めると言ってな。明日、スラバットへ向けて発つそうだ」
「明日、ですか。本来は、一週間ご滞在の予定でしたのに」
それだけの長い滞在であれば、この国内で彼を案内したい町や場所がまだたくさんあったのに……。
「うむ。サルディーノの件があったからな、一刻も早く帰国して、国王として即位する必要があるのだろう」
「そうですわね」
父イヴァンの言葉に、リディアは頷いた。現在の国家元首と、次期国家元首の父娘である。カルロスの立場をよく理解できるのだ。
「わたし、明日はぜひ、カルロス様のお見送りをしますわ。デニスと二人で。――ね、デニス?」
「ああ。よろしいですよね? 陛下」
「もちろんいいとも。――それでな、その後に、二人の婚約を国民に公表しようと思っているのだ。よいか?」
いよいよ、二人の仲を公にする時がきた。
「ええ! もちろんです!」
喜んで頷くリディアとデニスだったが、続くイヴァンの言葉に二人は凍りつく。
「実はその時に、私はそなたに皇位を譲ろうと思っているのだ」
「え……?」
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