「――あ、この部屋だわ」
廊下をつき当たったところに、おかみの寝室はあった。客室のドアとは明らかに違う、簡素な造りのドアを、リディアはコンコン、とノックする。
「おかみさん、リディアです。入って構いませんか?」
リディアが中に呼びかけると、中年女性の声で「まあ、姫様ですか? どうぞ」と返事があった。
「失礼します。おかみさん、お疲れのところに押しかけてすみません」
ドアを開けて室内に入ると、彼女はまず一言めに、おかみに詫びた。
そういえば、この女性はプレナから「嫁いできた」と言っていたのに、夫らしき男性は一度も見ていない。この部屋にもいない。
「おかみさん、失礼を承知でお訊きしますけど。あの、――ご主人やお子さんは?」
おずおずと、リディアは質問した。本当は彼女の個人的な問題には、安易に踏みこむべきではないのかもしれないけれど。「子供達は――娘二人なんですけれど、どちらもお嫁に行きました。夫は……、三年前に亡くなりました。海で、嵐に遭って……」
苦しげに声を詰まらせる彼女に対し、リディアは申し訳なさで胸が痛んだ。
「この宿は元々、船宿だったんです。夫は漁師でもありましてね。ある日、漁に出て、船が嵐で難破してしまって……。夫亡き後は、私がこの宿を切り盛りしているんです」
「そうだったんですか……。何だかつらいことを思い出させてしまって、申し訳ありません」
リディアは今にも泣き出してしまいそうな顔で、彼女に詫びた。
「わたしも五歳の頃に、母を亡くしていますから。大切な人を失う悲しみは分かります。おかみさんも、おつらかったでしょうね」
リディアの母であるマリアン皇后は、十三年前に病死したのだ。当時、彼女は皇子を身籠っており、母の死と同時にお腹の皇子も死んでしまったので、リディアは母と生まれてくるはずだった弟を同時に亡くすという、二重の悲しみを一度に背負ってしまった。
「――ところで姫様、私の故郷について、詳しい話をお聞きになりたいと仰っていましたよね?」
おかみの方から本題に入ってくれたので、リディアは救われた気がした。
「ええ、そうでしたね。――プレナが荒くれ者達に困らされるようになったのは、いつ頃からなんですか?」
「家族が最初に手紙で知らせてきたのは、五年……くらい前ですかねえ」
リディアの質問に、おかみは首を傾げながら答える。
「まあ! そんなに前から?」
「ええ。その前から少なからず、被害はあったようですけどね。ここ一,二年は特に被害がひどいみたいです」
「なるほど……」
リディアは頷く。帝国がプレナを庇護するようになったのが、ちょうど二年前である。
国が豊かになったことで、略奪が激しくなったのだと考えれば、辻褄が合う。
「実は今日、レーセル城にプレナから使者が来ていたんです。その荒くれ者達を何とかするのに、帝国軍の力を借りたい、と。――それで、おかみさんにお訊きしたいんですけれど」
「何でしょう、姫様?」
二十年も祖国を離れている一般人に訊ねてもいいものか、とリディアは迷ったが、それでも思いきって彼女に疑問をぶつけてみた。
「あの国の状況は、どれほど逼迫しているのでしょう? 軍の手に負えないほどなのでしょうか?」
これは、デニスとジョンにも共通の疑問である。軍人である彼らも、そこが腑に落ちないようだ。
「おかみさんが知らされている限りでいいんです。教えて頂けないでしょうか?」
その訊き方から、皇女が自分の故郷のことを本気で案じていることを感じ取ったおかみは、「分かりました」と頷いた。少し思い出しながらのように、質問に答える。
「家族からの便りによれば、その荒くれ者達は海賊らしいんですよ。ですが、プレナでは海軍にあまり力を入れていないようで。陸軍では海賊に太刀打ちできないので、帝国の海軍に助けを求めたんだと思います」
「はあ、なるほど」
プレナという小国は、数年前までそれほど豊かな国ではなかったため、海賊など海からの侵略は想定されていなかったのだろう。そのせいで、国内の治安を守る陸軍ばかりが力を持ち、海軍は蔑ろにされていたようだ。
言い方こそ悪いが、平和ボケしていた小国がレーセルの庇護を受けて豊かになったところへ、海賊が侵略してきた。対処方法が分からない小国の王は、世界一の規模を誇る海軍を有するレーセルに助けを求めることにしたというところか。
「――それで姫様、イヴァン陛下はこのことについて何と?」
おかみは縋るような思いで、リディアに問うた。皇帝の鶴の一声で、海軍は動く。それを期待して、彼女は皇女に訊ねたのだろうけれど。
「申し訳ありません、おかみさん。父は一昨日から隣国のスラバットに出向いていて、明日にならないと戻らないので、プレナの件はまだ父の耳には入っていないんです」
「そうですか……」
おかみはガックリと肩を落とした。その顔には絶望の色さえ窺える。
(まったく、お父さまったら! こんな緊急時に呑気に外交なんて!)
リディアはこの夜初めて、父に対して怒りの感情を覚えた。もちろん政治のうえでは、外交も大事だということも分かっている。けれど、おかみの縋るような眼差しと絶望的な表情を見ていたら、今はそんなことはどうでもいいとさえ思えてくるのだ。
だからこそ、リディアは彼女に希望を持たせるように、こう言った。
「父が戻れば、必ず事態は動きます。ですがその前に、わたし個人としても、何かできることがあればしたいと思っているんです」
たとえ軍を動かす権限はなくても皇女として、次期皇帝として、この女性の故郷を何とかして救いたい。――そうリディアは心に決めていた。
「帝国はいつだって、あなた方の味方です。だって、プレナの国民は、レーセルの国民と同じくらい大切なんですもの」
それは彼女なりに、協力を惜しまないと宣言したようなものであった。
「ありがとうございます、姫様!」
おかみはリディアの手を両手で握り、額をこすりつけんばかりにして頭を下げる。
(わたしが、この人の故郷を救わなきゃ!)
リディアの表情は、決意に充ちていた。
「――では、おかみさん。わたしはこれで失礼しますね。おやすみなさい。お疲れのところをお邪魔して、すみませんでした」
彼女はもう一度おかみに頭を下げると、部屋を後にした。再びランタンの灯りを頼りに階段を上がると、自分の客室ではなく、向かいの男部屋のドアをノックする。
「デニス、ジョン! まだ起きてる?」
「ああ、起きてるって! リディア、デカい声は頭に響くからやめてくれ!」
彼女の呼びかけに、やや不機嫌そうに応じたのは、先刻の酒盛りで漁師達に酔い潰されたデニスだった。
「入るわよ」と声をかけ、ドアを開けて室内に入ると案の定、中は酒の臭いで充満している、火でも持ち込めば爆発しかねない。
「リディア様、どうなさったのですか? こんな夜遅くに。――あの、窓を少し開けましょうか?」
ジョンの機転に、頭がクラクラしていたリディアは「ありがとう、お願い」と頷く。彼女は酒が全くダメなので、この部屋の中の空気だけで酔いかけていたのだ。
ジョンが窓を開けてくれたおかげで、室内に籠っていた酒臭さが外に逃げていき、代わりに外から潮風の爽やかな薫りがする。
「どうですか、ご気分は?」
「ありがとう。空気の入れ替えをしてくれたおかげで、だいぶ楽になったわ」
頭のクラクラがおさまったリディアは、ライティングデスクの椅子に腰かけて一息ついた。酔いが醒めたらしいデニスも、ベッドからムクッと体を起こす。
「――で、どうしたんだよ?」
彼は改めて、リディアに夜遅くに自分達の部屋を訪ねてきた理由を問うた。
「あのね、さっきわたし、おかみさんの寝室を訪ねたのよ。プレナで今、一体何が起きているのかを訊くためにね。そしたら……」
リディアはそう話を切り出し、おかみから聞き出した情報を、二人の兵士にも話して聞かせた。
プレナは海軍に力を入れていないから、海賊相手には手も足も出ない――。その事実を知り、デニスとジョンにも合点がいったようである。
「なるほど……。だからプレナの国王陛下は我が国の海軍に動いてもらおうと、使いを送られたのですね」
「ええ、そうみたいだわ。でも、タイミングが悪かったわね……」
リディアはジョンの言葉に頷き、残念そうに肩をすくめた。軍を動かす権限を持つ皇帝が不在の時に使いを送っても、何の解決にもならないのだから。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!