デニスがいる。ジョンがいる。ガルシアもステファンもいる。エマも、大臣も、城の侍従達も、兵士達もいる。父イヴァンだって、まだまだ元気でいてくれるだろう。
彼女は自身の身近な人々のことを想い、ここに集まっている国民達の姿を見つめた。
こんなに多く、自分を支持してくれる人々がいるのだ。きっと自分は、立派な皇帝になれる。何の根拠もないけれど、リディアはそう確信したのだった。
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すっかり日が暮れ、聴衆達が広場から帰っていく。城から出てきた面々も、そろそろ引き揚げようとしていた。
「――お父さま、先に戻っていて下さい。わたしはもう少しの間、ここに残ります」
リディアが一人「残る」と言えば、一緒に残りたがる男が約一名。デニスである。
「じゃあ、オレも残るよ」
「デニス、あなたも先に戻ってて。お願い」
最後の「お願い」にあえて凄みを利かせて言うと、デニスも逆らえないと悟り、やっと渋々だが「分かった」と頷いた。
引き揚げていく一団に目を凝らし、彼女は目当ての人物――長身・金髪の青年兵士――に声をかける。
「ジョン、待って! あなたと話したいの」
「……姫様? お一人ですか?」
珍しくデニス抜きでリディアと向き合ったジョンは、目を丸くした。
自分と二人で話したいこととは何ぞや? と彼は首を捻る。が、まずは一言、リディアに言わなければならないことがあった。
「姫様。この度はデニスとの婚約、まことにおめでとうございます。アイツと幸せになって下さい」
「ありがとう、ジョン。――でもね、話したいのはそのことじゃないのよ」
「えっ?」
ジョンは虚をつかれたように目を瞠る。
「あなたの、わたしへの気持ちを確かめたくて。聞く機会は、これで最後だと思うから」
この先一月は即位や結婚に向けての準備で忙しくなり、二人で話す機会がなかなか取れなくなるだろうから。今日のうちに聞けるものなら聞いておきたい。
「はあ。では申し上げます。――俺は、初めてお会いした時から、ずっと姫様に好意を抱いていました」
「いました、って?」
リディアは首を傾げた。既に過去形になっているのに、先ほどまであんなに複雑そうな表情を浮かべていたのはなぜだろう?
「デニスと両想いになったと聞かされた時、俺は姫様への恋心を封印したつもりでした。姫様のアイツへの想いには気づいていましたし、結ばれるべきは一兵卒の俺よりも、いつもお側にいるデニスの方だろうと思い、恋心を忠誠心にすり替えて」
そうして姫様のことはデニスに譲り、自分の想いは過去形にしたのだと、彼は言った。
「それでも諦めきれなかったんでしょう? さっきの表情を見ていたら分かるわ」
「その通りです。姫様は鋭いですね。俺の想いは、封印した後もずっと燻っていました。だからといって、デニスからあなたを奪うつもりなんかなくて。なんとか忠誠心なんだと自分に言い聞かせて、ごまかし続けていました。姫様に告げることもないと思っていましたし」
ジョンは自嘲ぎみに肩をすくめる。リディアは彼がどんな想いでそう振る舞ってきたのかを考えると、やるせなかった。
「自分に嘘をつき続けて、苦しかったでしょう?」
「……はい、苦しかったです。だから今日、こうしてお話しできてスッキリしました。これでやっと、胸のつかえが下りました。姫様、ありがとうございます」
彼は苦しみからやっと解放されたようで、リディアに久しぶりに心からの笑顔を見せてくれた。幼い頃によく見せてくれた、屈託のない笑顔だ。
「いいえ、わたしは別に感謝されるようなことはしていないけど」
とはいえ、感謝されても悪い気はしない。彼女も微笑みで返した。
そして、どうせなら今ここで、彼に軍の人事に対する意志確認をしておくのも悪くないと思った。
「――あのね、ジョン。わたしは新皇帝として、軍の人事をお父さまから任されたの。あなたにも、何か地位や役職を授与しようと思っているんだけど、受けてくれる?」
喜んで受けてくれるか、それとも謙虚に断られるか? 思案顔のジョンからは、判断がつかない。
「ジョン、どうかしら?」
再び彼女は返事を促す。ややして、決意を固めたらしいジョンが口を開いた。
「もちろん、喜んでお受けします。断るなんてとんでもない! これからも、姫様の忠実な臣下として働かせて頂きます」
「ありがとう! これからもよろしくね、ジョン」
子供の頃から、自分とデニス、ジョンの三人の関係はすっかり変わってしまった。けれど、ずっと三人で一緒にいられるのだ。それがとても嬉しくて、リディアは自然と笑顔になったのだった――。
****
――その日の夜。夕食も入浴も済ませた寝間着姿のリディアが、ベッドの上で歴史書のページをめくっていると、コンコンと寝室のドアがノックされた。
(こんなに夜遅く、誰かしら? エマはさっき下がらせたし……)
他の侍女? ――リディアは首を捻りつつ、ドアの向こうに「どうぞ」と声をかける。
「リディア、入るぞ」
よく聞き慣れた若い男性の声の後、不躾にドアを開けて入ってきた人物に、彼女は目を丸くした。
「デニス!? 一体どうしたのよ?」
「よう、リディア。――いや、『姫様との婚約が公になったんだから、姫様の部屋に行ってこい!』って先輩兵士達に焚きつけられちまってさあ。もう参ったよ」
「まあ……」
照れ臭そうに頬をポリポリ掻く彼に、リディアは絶句した。それはつまり、夜這いをしに来たということだ。
(ああ、なんてこと……)
まだ婚約発表されてから数時間が経過しただけで、彼女は心構えができていないというのに。――ところが。
「んー、でもオレは今日は、お前に手出しするつもりはないんだ。そういうことは、初夜まで大事に取っておきたいからさ」
「初夜、ってねえ……」
生々しい単語に、リディアの頬はポッと赤くなる。結婚するということは当然、子作りもそこに含まれるわけで……。何をどうすれば子供ができるかくらい、彼女にも分かる。
「……まあ、夫婦になるんだから、自然な流れよね」
しかも、愛し合って結ばれるのだ。愛してもいない男が相手ならともかく、愛するデニスが相手なら、もう何の抵抗も感じない。心構えができてからなら、の話だが。
「でもいいの? それだと、あと一月生殺し状態が続くことになるわよ?」
「ああ、いいんだ。オレは構わない」
「……そう」
デニスが「いい」と言うなら、ここは引き下がるしかない。リディアの方から押すのも違う気がするし……。
「――お前、またそれ読んでるのか」
デニスはリディアのベッドの縁に腰かけ、彼女の手にある分厚い歴史書を覗き込んだ。
「ええ。もうすぐわたしも、ここに名前が刻まれるんだと思ったら、何だか嬉しくて」
答えるリディアの声が弾んでいる。何たって、彼女は一月後に、八〇年ぶりとなる女性皇帝になるのだ。歴史に名を残す瞬間が近づいていると思うと、そりゃあワクワクするだろう。
「昨夜の約束、一月後には果たせるんだな」
リディアが即位する時には、夫として側にいてずっと支えていく。デニスが彼女と交わした約束も、間もなく果たされるのだ。
「ええ。それまではお互いに忙しくなるから初夜はお預け、ってことでしょう?」
「ああ、まあな」
リディアの解釈に、デニスは曖昧に頷く。
「――ところでさ、リディア。夕方、広場でジョンと二人で話してしてたんだって? 一体どんな話してたんだ?」
唐突に、彼は話題を変えた。
「えっ、どうして知ってるの?」
「さっき、本人から聞いた。けど、内容までは教えてくれなかったからさ」
ブスッとしながらデニスは答える。それは自分がのけ者にされたことが面白くないからなのか、ジョンに嫉妬しているからなのか。
「どんな、って。彼の気持ちを、最後に確かめたの。今日を逃がしたら、もう二度と話してもらえないと思って」
リディアはそこで一旦言葉を切り、ジョンが恋心を認めたことをデニスに話した。
「……で? お前はどうするんだ?」
「どうもしないわ。ジョンはこれから先も、わたしの大事な幼なじみで忠実な臣下。ただそれだけよ」
片眉を上げて問うデニスに、彼女は淡々と答える。冷たいようだが、他に言いようがないのだから仕方がない。
「あ、それとね。ジョンには軍の人事を打診したの」
「軍の人事?」
狐につままれたような顔で、デニスが訊ねた。
「ええ。昨夜あなたが下がった後にね、お父さまから頼まれたの。新皇帝として、軍の幹部を任命してほしいって。人選は任せる、って。でね,あなたにもジョンにも,それ相応の地位や役職を与えようと思ってるの」
「へえ……。で、ジョンにはどんな役職を与えようと思ってるんだ?」
デニスも興味があるらしく、身を乗り出して質問してきた。
「それはまだ考え中だけど。あなたには、近衛軍団長をやってもらうつもりよ」
「はあ!? なんでオレが」
デニスの声が大きくなる。今は夜中だ。これでは近所迷惑……もとい城内迷惑になってしまう。
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