――そういえば、今は何時頃だろう? 懐中時計を宿に置いてきてしまった。
「ところでデニス、あなたも納得していないんでしょう? ジョンが、あなたの提案を却下したこと」
リディアは彼が眠れなかった理由を、そう推測した。あれだけヘベレケに酔っていたのに、眠れないとは。今はもう、酔いはすっかり醒めているようだけれど。
「ああ、まあな。っていっても、オレは自分の手柄には興味ないんだ。リディアも行きたがってたのに、却下されたから何かモヤモヤして」
「……わたしのために?」
デニスは頷いた。
彼とリディア、ジョンが知り合ったのは、五歳の時。ちょうどリディアの母君である皇后と、弟君として生まれてくるはずだった皇子を同時に亡くし、ひどく塞ぎこんでいた皇女を元気づけるために、皇帝イヴァンが家臣の息子である彼らを息女と引き合わせたのだ。
その頃から、デニスはリディアのことを「皇女」として腫れものに触るでもなく、一人の同い年の女の子として普通に接してくれていた。いつも彼女の気持ちを優先して、思い遣ってくれていたのだ。
今回だって、彼はリディアのために提案してくれたのに……。誰かが困っていたら放っておけない心優しい皇女は、世話になっている宿のおかみの故郷であるプレナを何とか自分なりに救いたいと思っている。デニスもそれを分かったうえで、ジョンに提案してくれたのだと思う。それなのに……。
「確かに、ジョンの言ってることは正しい。リディアは丸腰だから戦えないし、オレだってお前を危ない目には遭わせたくねえよ。ただ、リディアの気持ちも分かるから,ジョンに何も言い返せなかったのが悔しくてさ」
「デニス……」
「オレはいつも、リディアの味方でいたいのに。お前が戦えなくたって、オレが全力で守る覚悟もできてたのに……」
リディアは目を瞠った。いつもおちゃらけていて、姫である自分にも平然と軽口を叩くデニスのこんな真剣な表情を、剣の特訓の時以外に見たのは初めてな気がする。
「デニス、ありがとう。あなたは本当に優しいのね」
リディアは彼に頭を下げた。戦えない者のために盾になるなんて、いくらそれが自分の仕事でも、そう易々と言える台詞ではない。
「わたしは、あなたのその優しい気持ちだけで充分ありがたいから」
これは、リディアの偽らざる本心。ましてや、好きな相手にこんなことを言われたら、女性としてこれ以上の喜びはない。
「オレはガキの頃から、ずっと心に決めてたんだよ。いつまでもリディアの側にいて、お前のことを守ってやるんだ、って。時には盾にもなってさ」
「まさに有言実行じゃない? 今じゃこうして近衛兵として働いてくれてるんだもの」
リディアは彼を励ますつもりで、微笑みながらそう言った。あなたはちゃんと、子供の頃の決意を果たしているんだから、そんなに自分を責めないで、と。
彼女の手がデニスの頬に触れた瞬間、信じられないことが起きた。デニスが自分の手で、リディアの手を掴んだのだ。
「デ、デニス?」
大きなデニスの手の平から彼の温もりが伝わってきて、リディアの心臓がドクン、と高く脈打った。心臓が跳び出すのではないかと思うくらいに。
ジョンに手を取られた時には少し戸惑っただけで、こんなにドキドキはしなかった。
ときめくのは、相手がデニスだから。
「リディア、ありがとう。お前は本当に優しいな……」
「それ,わたしがさっき言った台詞」と言う前に、リディアの唇はデニスの唇に塞がれていた。初めてのキスだった。
酒の臭いはしないから、酔ってキスしたわけではなさそうだ。……とすると!?
「~~~~~~~~っ!」
唇が離れた瞬間、リディアの顔は真っ赤に染まった。知ってしまったのだ。彼の、自分に対する想いを。
「……あっ、あなたがこんなに情熱的だったなんて、思わなかったわ」
赤面しながら俯いて呟くリディア。今顔を上げたら、彼にどんな顔をしていいのか分からない。けれど、もう彼の方の想いを知ってしまったのだから,自分自身の想いだってバレてしまってもいいのかもしれない。
「ごめんな。迷惑……だったか?」
後悔しているような表情で訊くデニスに、リディアは強くかぶりを振る。
「迷惑なんかじゃないわ。むしろ、あなたがいいの。あなたが好きだから」
思いきって本心を打ち明けた彼女は、デニスを真っすぐ見つめて微笑んだ。それを聞いたデニスも、「そうか」と嬉しそうに微笑み返す。
「オレさ、ちょっとジョンに嫉妬してたんだな、やっぱり。だから、焦ってたんだ」
(別に、焦らなくてもいいのに)
そんなに自分に自信がないのかしら? とリディアが笑うと、デニスはちょっとムッとした。
「――さて、リディア。そろそろ宿に戻るとするか。オレはともかく、リディアがいつまでもいなかったら、ジョンのヤツが発狂しかねないからな」
発狂……。確かに、ジョンなら有り得る。そう思ったリディアは笑いながら、「ええ、そうね」と頷いた。
二人で、浜辺を宿まで歩く。リディアの顔はまだ火照ったままで、胸も高鳴ったまま。夜の涼しい潮風に当たっても、それはなかなかおさまってくれない。
「――ねえ、デニス」
「ん?」
リディアが真剣な声で、デニスを呼ぶ。幸い辺りは真っ暗だし、ランタンの頼りない灯りだけなら、彼女の顔の色はデニスに見えない。
「あのね、さっきのことだけど……。まだジョンには言わない方がいいと思うのよ。知ってしまったら、それこそ彼、発狂しかねないわ」
デニスとジョンは、言うなればリディアを巡っての恋敵なのである。けれど、親しい友人同士でもある。なので、できれば波風を立てて、これまでのいい関係を壊すようなことはしたくないと彼女は思っていた。
「言わなくても、アイツならそのうち気づくさ。頭いいからな、オレと違って」
「もう! どうしてそこで、自分を卑下するようなこと言うのよ」
せっかくのいい雰囲気に水を差すデニスの言動に、リディアは顔をしかめる。
「さっきも言ったでしょう? わたしが好きなのは、あなただって。だから、もっと自信を持ちなさい!」
彼女はランタンを持っていない、空いている方の手で、デニスの引き締まった二の腕をバシッと叩いた。
デニスが抗議する。
「痛って! 本気で叩くなよ!」
剣の特訓を受けているだけあって、彼女の腕力も女性にしては相当なものだ。
ただ「皇女」として生まれてきただけで、リディアは特別な人間でも何でもなく、何の能力も持っていない。だからこそ、次期皇帝として民を守るために、剣の特訓を始めたのである。大好きなデニスに頼み込んで。
「ゴメンゴメン! つい力が入りすぎちゃって」
デニスが本気で怒っていないのを分かっているから、彼女も笑いながら謝る。
宿に戻ると、ランタンを持ったジョンが、勝手口の前に立って二人を待っていた。頭のてっぺんから湯気を立てていそうなくらい、カンカンに怒っている。
「うわ、ヤベえ……」
デニスが顔をしかめた。誘ったのは彼ではなくリディアの方なのに、頭から怒られるのは自分だと思い込んでいるようだ。
(まあ、ジョンがわたしのこと、怒れるわけないものね)
腐っても(いや、腐ってはいないが)、リディアは姫である。彼らの主である。生真面目なジョンのことだから、「姫様を怒るなんて畏れ多い」とでも思って遠慮しているのだろう。
悪いのは自分なのに……と思うと、リディアはチクリと心が痛む。ので。
「ごっ、ゴメンなさい、ジョン。余計な心配をかけてしまって」
彼女は先手を打って(?)、自分からジョンに謝った。するとやっぱり。
「デニス! どうせまた、お前がリディア様を誘い出したんだろう? 姫様に謝らせるなんてどういうつもりだ!」
リディアの謝罪などまるで無視して、頭ごなしにデニス一人を責め立てている。
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