「――姫様、お待たせ致しました。どうぞ」
エマが注いでくれた紅茶のカップに口をつけてから、リディアは再び口を開いた。
「うん、美味しい。――でも、女性の皇帝はもう何代も誕生していないのよ。わたしが即位すれば、八〇年ぶりになるんですって」
「だったら、尚更リディアは死ぬわけにいかないよな」
「ええ……」
自分は死ぬわけにいかない。そしてデニスも、ジョンも、カルロス王子も死なせたくない。
まして、カルロスはスラバット王国という国の未来を背負っているのだ。彼が死ぬことはすなわち、国が滅びることを意味する。
そのためにも、ジョンが護衛の任務を遂行し無事に戻ってきてくれることを、リディアもデニスも切に願っているのだが……。
「ジョン、大丈夫かしら……?」
南の方角にある窓の向こうを眺めながら、リディアはもう一人の大切な幼なじみの身を案じていた。
****
――父・イヴァン皇帝とともに午前の謁見を済ませたリディアは、部屋に戻ろうとしているところを大臣に呼び止められた。
「姫様。午後は昼食も兼ねて、レムルの城下町へ視察に行くので同行してほしい、と陛下が仰っておりました」
「お父さまが? ――そういえば、謁見が終わってすぐにお部屋へお戻りになったわね」
いつもなら、謁見が終わってもしばらくは玉座の間に残るのに。リディアもそれは不思議に思っていた。
彼女もこの一,二年は、父の視察によく同行するようになった。そのため、今日の父の頼みも大して疑問に思わなかったのだが。
「それがですね、姫様。……サルディーノ様も、その視察に同行されたいと仰られましてですね……」
「何ですって!? それで……、お父さまもそれを了承なさったの?」
彼はリディア(もしくはイヴァン皇帝、最悪の場合は父娘二人とも)の暗殺を画策しているかもしれない要注意人物なのだ。そのことを、父も知っているはずなのに……。
「はい。だからこそ、姫様に同行してほしいのだと陛下は仰っておりました」
(お父さまは、あの男の化けの皮を剥がそうとしているのかもしれないわ)
父がむざむざ殺されに行くわけがない。ならば、サルディーノを嵌めようとしているのではないかと、リディアは察した。
どうでもいいが、「サルディーノが同行したがっている」と言った時の言い方といい、大臣もあの男が危険だと知っているのだろうか?
「――分かりました。それじゃあ、デニスにも同行してもらうわ。着替える必要はないのね?」
「はい。お召しものはそのままでよろしいかと存じます」
リディアは少し心配になった。いつものお忍びの姿ならともかく、ドレスのままでは剣を隠し持つことができないのである。
こうなるともう、デニスだけが頼りだ。
「デニス、わたしのこと、しっかり守ってちょうだいね」
彼女は側に控えている恋人に、そっと囁いた。デニスもしっかりと頷く。
「ああ、分かってるって」
リディアはその返事に安心しつつも、一抹の不安を拭いきれなかった。
(デニス、お願いだから死なないで)
「しっかり守って」と言っておきながら、そんなことを願うのは矛盾している。けれど、矛盾していると分かっていても、愛している人には死んでほしくない。
愛とは、時に矛盾を伴うものなのかもしれない。
「――姫様,陛下が参られました」
大臣の声で、リディアはハッとした。一階奥から、侍従や兵士をズラズラ連れた父が歩いてくる。その風格は、堂々たるものだ。
「君主とはこうあるべきだ」というお手本のように、リディアには見えた。
そしてその集団の中には、スラバット王国の宰相・サルディーノの姿もある。
彼がどのような思惑で、この視察に同行したいと言い出したのか定かではないため、油断ならない。が、逆に言えば、彼もイヴァン皇帝の本当の狙いを知らないのだ。それは父娘にとって、かえって好都合だとも言える。
「リディアよ、大臣から聞いているな? 今日これからの視察には、このサルディーノどのも同行する。よいな?」
「ええ、伺っておりますわ。――お父さま、ちょっとよろしいですか?」
リディアは後半部分を小声で言い、父をサルディーノの視界に入らない死角へ誘った。
「お父さまはもしかして、あの男を嵌めようとなさっているのではございませんか?」
娘の問いかけに、イヴァンは「ああ、その通りだ」と頷く。
「やっぱり……、そうでしたの。それを聞いて、わたしも安心致しました。お父さまが、わざわざ命を奪われるためだけに、危険人物を同行させるはずがありませんものね」
「うむ。あの男が帝国の未来を握ろうとしているのを知っていながら、何も策を講じぬわけにはいかぬからな」
「そうですわね……」
リディアは父の言葉に舌を巻いた。サルディーノもなかなかの策士だと思っていたが、父はそのさらに上をいく策士のようだ。
(そうでなきゃ、この巨大な帝国を治める皇帝なんて務まらないわよね)
今はどの国とも戦争状態にはないレーセル帝国だが、領地内ではあちらこちらで内紛が起きており、皇帝はそれを収めに行かなければならないのだ。いかに上手く諍いを収拾するかは、皇帝の策にかかっている。
「デニスが同行するのなら、そなたも安心であろう? 案ずるな。誰一人死にはせぬ」
「……はい」
父の言葉が、リディアにはとても心強かった。何も怯えることはない。
「では、参ろうか」
「はい!」
父親に促されたリディアは待たせていたデニス、サルディーノや兵士達と合流し、城下町の視察に向かったのだった。
****
――この日の視察は、やっぱりいつもと違っていた。
まず、サルディーノという異国の要人が同行していることからして異様である。こういう機会はめったにない。
そして、その要人が帝国の実権を掌握するために、皇帝父娘の命を狙っているらしいという妙な緊張感が、一行を支配していた。
一行の中でも一番ピリピリしていたのは、デニスを始めとする近衛軍団である。サルディーノが直接手を下す可能性は低いため、必ず町のどこかに刺客を紛れ込ませているはずだ。――そう思い、彼らは行く先々で目を光らせていた。
そろそろ夕暮れが近い。けれど、ここにきてまだ、サルディーノ側に動きはない。
(彼が何か企んでいると思ったのは、ただの思い過ごしだったのかしら……?)
リディアの頭を、そんな考えがよぎったその時――。
何か、キラリと光るものが彼女の視界に入った。その次の瞬間。
「リディア、危ない!」
(え……!?)
リディアを抱きかかえるようにして庇ったデニスが、右腕を押さえてうずくまる。その腕からは流血しており、彼女の後ろにある木には、小ぶりの短剣が刺さっている。
そこでリディアは初めて、自分の嫌な予感が現実になったのだと察した。
デニスが庇ってくれなければ、自分は危うく殺されるところだったのだ、と。
「デニス! ……大丈夫!?」
「大丈夫だ、リディア。こんなの、ただのかすり傷だって……痛てて」
泣き出しそうな顔で心配するリディアに、デニスは強がって見せる。けれど、彼女が受けた精神的ダメージは、デニスの予想を遥かに上回っていたのだ。
大切な人を傷付けられた。彼の出血した右腕を凝視していたリディアの中で、何かがプツンと切れる。
「貸して」
感情を押し殺した、有無を言わさぬ口調で彼女は言い、デニスの腰から提がっている鞘から剣を抜いた。そのまま、切っ先を真っすぐサルディーノに突きつける。
その所作こそ静かで美しいが、内にはただならぬ怒りを秘めており、刃を向けられた異国の宰相はその恐ろしさに竦み上がった。
「……あなたが命じたのでしょう? 『皇女を亡きものにしろ』と」
リディアは穏やかに問う。けれど、静かな怒りほど恐ろしいものはない。
「いや、わ……私は知らん! 私は、何も」
「嘘よ! わたしは、カルロス王子から聞いたもの! あなたが、この帝国の実権まで奪おうとしているって。そのために、わたしが邪魔になったのでしょう!? わたしがカルロス王子との縁談を断ったから、急きょ計画を変更したのでしょう!?」
言い逃れしようと試みるサルディーノを遮り、リディアは畳みかけた。
彼女はもはや、冷静さを失っていた。
「サルディーノ・アドレ! わたしはあなたを決して赦さない!」
「ダメだ、リディア!」
「リディア、やめぬか!」
怒りで我を忘れているリディアの耳には、愛する男の声も、父の制止する声も届かなかった。剣の腕が優れている彼女は、このままではサルディーノを殺してしまいかねない。
――と、その時。
「もういいですよ、姫様。さ、剣を置いて下さい」
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