「まあ、冗談はこのくらいにしておいてだな。――本当に、身辺には気をつけよ。デニスがついているからといって、くれぐれも油断するでないぞ。よいな?」
「はい、分かっています」
リディアは深く頷く。サルディーノは、おそらく策士だ。どんな手を使ってくるか分からない。
少しでも隙を見せたら、あの男は容赦なく牙をむいてくるだろう。
「お父さまに刃を向けることは、おそらくないと思いますが。念のため、お父さまも身辺にはご注意下さいませ」
「ああ、分かっている」
帝国の権力を削ぎ落とすことが彼の狙いだとすれば、まずは目下の君主である父の命を狙ってくる可能性も考えられる。
とはいえ、元は有能な軍人であるイヴァン皇帝ならば、そう易々とやられることもないだろうけれど。
「――ごちそうさまでした」
少々重苦しい空気にはなったが、朝食は済んだ。
「わたしは先に、部屋に戻っています。午前の謁見は、一〇時からでしたわね?」
「ああ、そうだ」
「では、その頃にまた降りて参ります」
リディアは父に一礼して、食堂を出た。
階段に向かう廊下の途中で、すれ違いざまに彼女に声をかけてくる者が……。
「や、これはリディア殿下。おはようございます。今日もお美しいですなあ」
(……! サルディーノ・アドレ!)
つい先ほどまで、食堂で話題に上っていた要注意人物との遭遇に、リディアは動揺を禁じ得ない。けれど、それを悟られてはいけないと思い、あえて平静を装った。
「おはようございます、サルディーノ様。カルロス様は、もうお発ちになりまして?」
「はい、つい先ほど。私は港町で美しい海を眺めるよりも、ここに美しい姫様と残った方が楽しいのですがねえ」
(よく言うわよ、白々しい!)
サルディーノに内心毒づきながら、リディアはにこやかに相槌を打つ。
彼が自分(もしくは父)の命を狙っているらしいことは、既に知っているというのに。この男は、まだシラを切り通すつもりだろうか?
「――そういえば、リディア殿下。あなたはカルロスとの縁談をお断りになったそうですな?」
「……ええ、そうですが。それが何か?」
唐突に話題を変えたサルディーノに、リディアは一瞬たじろいだ。――この男は一体、何が言いたいのだろうか?
「いや、カルロスから聞きましてな。何でも他に想う相手がいるとか。――そう、近衛兵の。名前は確か、デ……、デ……」
「デニス……ですか?」
誘導尋問に引っかかってしまったことは、リディアも分かっていた。が、彼の言わんとすることを知るためには、それも致し方ない。
「そうそう、デニスどのだ! 聞けば、殿下とその若者とは幼なじみなのだとか。子供の頃から親しかったそうで」
「ええ。……それが何か?」
リディアは苛立ちを隠しながら、サルディーノに問い返す。いい加減、彼の回りくどい言い方にはウンザリしてきていた。
「あなたがデニスどのに抱いている感情は、本当に男女間の愛情なのでしょうか? 幼なじみへの情愛を、愛と勘違いなさってはいませんかな?」
「……!」
(彼が言いたかったのは、これだったの!?)
彼女はハッと息を呑んだ。いつかは誰かに言われると思っていた。そして、自分でも何となく思っていたことだ。「自分のデニスへの想いは、本当に恋なのか?」と。
迷いはあったけれど、必死にそう思い込もうとしていた。でも、彼によく似たカルロスと対面した瞬間、自信が揺らいでしまったのだ。カルロスの、吸い込まれそうなくらい澄み切った瞳に見入ってしまったことで。
「そんなこと……、あるわけないでしょう!? わたしの彼への想いは、恋心で間違いございませんわ!」
リディアは怒りを露わにして、サルディーノに反論した。
「幼なじみへの情愛」というのなら、ジョンに対してもその感情は抱いている。けれど、デニスに対しての感情は、それとは明らかに違っていた。これだけは自信があるのだ。
愛する人とでなければ、口づけなんてできない。現に、ジョンやカルロスとそういう仲になることを、リディアは望んでいない。
「お話はそれだけですか? でしたら、わたしは忙しいので、これで失礼致します」
去り際、リディアはサルディーノに忠告した。
「サルディーノ様、これだけは申し上げておきますわ。権力に溺れる者は、いずれ自らの権力に滅されるでしょう。お気をつけ下さいませ」
不敵な笑みを浮かべ、彼女は階段を上がっていく。サルディーノは苦虫を噛み潰したような顔をした。
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――これで、リディアのサルディーノ宰相への怒りや敗北感が収まったかと思いきや。
「もう! 何なのよ、あの人!? 頭に来るわ!」
自室の中の執務机に座った途端、彼女は彼女らしくない口調で怒りを吐き出した。
「リディア、どうしたんだよ?」
これには、昔から彼女のことをよく知っているデニスも、目を丸くした。
侍女であるエマも、めったに見ることのない主の取り乱しように茫然としている。
「ひっ、姫様? 何があったのですか? 『あの人』とはどなたでございましょう?」
「サルディーノ宰相よ! サルディーノ・アドレ! わたしのデニスへの恋心を、『幼なじみへの情愛を勘違いしているんじゃないか』って言ったのよ、あのハゲオヤジ! あ~もう,腹立つ!」
ここまでくると、もはや暴言である。デニスも、さすがにこれには「ハゲオヤジって……」と苦笑いするしかなかった。
リディアは自分がこんなにも腹を立てている理由を自覚している。そして、デニスに言えないでいる。
サルディーノに、痛いところをつかれたから。デニスへの恋心に自信がないことを見透かされて。
彼には確か、警戒心を抱いていたはずなのだが。恐れというか。その感情は、度を越すと〝怒り〟に変わるのだろうか?
「――エマ、悪いけど紅茶をお願い」
「畏まりました」
謁見までは、まだ充分に時間がある。お茶を楽しむくらいの時間的余裕はあるだろう。
「――そういや、ジョンは今日、あの王子の警護だって?」
紅茶を待っている間、レーセル帝国の分厚い歴史書を広げ始めたリディアに、デニスが訊いた。
「ええ、そうだけど。どうしてあなたが知っているの?」
「朝メシの後、本人から聞いたんだよ。『姫様から直々に頼まれたんだ』ってな。――あれ? ひょっとして、オレが知ってたらマズかったか?」
「ううん。あなたが知っていても、別にわたしに不都合はないわ」
ジョンならば、必ず友人であるデニスには話すだろうと、リディアも思っていたのだ。
不都合があるとすれば、サルディーノの方だろう。リディアへの護りが厳重になる分、暗殺がやりにくくなるのだから。
「あの男は、わたしの命を狙ってくるかもしれないの。だからデニス。わたしのこと、ちゃんと守ってね。お願い」
「当たり前だろ。そのためにオレがいるんだからさ。いざって時には、オレが盾になってやるよ」
「……そんな悲しいこと言わないで」
デニスの言ってくれたことは、とても嬉しくて頼もしいことのはずなのに。リディアは表情を曇らせた。
「盾になる」ということは、彼が自分の代わりに犠牲になるということだ。――そう思うと、素直に喜べなかった。
「分かった分かった! オレの言い方が悪かった! オレは簡単に殺られたりしねえから! だから安心しろ、なっ?」
「……本当に?」
「ああ、本当だって」
泣き出しそうな顔をしていたリディアは、デニスの返事を聞いて安堵した。
彼のいない未来なんて考えられない。彼を失ってしまったら、もう永遠に立ち直ることはできないだろう。――そう思うと、リディアは改めて自分の気持ちに自信を持つことができた。
デニスへの想いは紛れもなく、正真正銘の恋心だ、と。
「――ところでそれ、何を読んでるんだ?」
デニスに問われ、ページから顔を上げたリディアは答えた。
「これは、この国の歴史書よ。わたし、昔から時間が空くとね、こうして少しずつ目を通すようにしているのよ」
そして彼女はまた、読んでいたページに視線を落とす。
――このレーセル帝国には、建国から実に四〇〇年の歴史がある。
建国して二〇〇年ほどの間は、戦によって皇帝が決められていたという。そのため、短命で王朝がコロコロ変わり、政権が安定しなかった。
レーセルが国として安定するようになったのは、二〇〇年前にリディアの先祖であるエルヴァ―ト家の当主・ピエール一世が政権を取ってからだ。以降、この国は代々エルヴァート一族が治めており、女帝が君臨するようになったのもこの二〇〇年の間のことである。
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