「なっ!? く、くるなっ!」
自分に向かって駆け出した俺を見て、ラッシュは目を丸くする。
ふたたび矢を構えて俺を狙おうとするが、もう遅い。
俺は、ラッシュのすぐ間近にまで迫っていた。
この距離なら、矢を放ったところで大した傷は負わされない。
俺は目の前の魔族を睨み下ろす。
その姿は、ずいぶんとちっぽけに見えた。
「あ、あ……」
ラッシュは怯えるように数歩後退る。
俺も追いかけるように踏み出す。そしてラッシュに話しかけた。
「悪いな」
「あ?」
「俺は、ハピネのためにあんたをぶん殴る必要がある」
この男は、あいつの絶望の象徴だ。
ずっとあいつの心に居座って、常に死の存在を思い起こさせ、逃げることなどできないと思い込ませ続けてきた。
だからこそ。
俺はそれを振り払ってやらなきゃいけない。
絶望する必要などないと。
逃げられない運命など存在しないのだと。
そんなものは、こんなに簡単に殴り飛ばせるものなんだと。
わからせてやらなきゃいけないんだ。
「な、なぜ、だ?」
視線を落ち着きなくふらふらと彷徨わせながら、ラッシュは言ってくる。
「なんで、そこまでする?」
俺の背後で成り行きを見守っているハピネを指差して問う。
「あの小娘のためにどうしてそこまでしてやる理由がお前にあるんだ!」
「わからねえか?」
俺は拳を握りしめる。
わからないだろうな。
教えてやるよ。
「それはな――あいつが俺を百万ベリアで買いやがって、ぶー太なんてふざけた名前をつけやがって、豚やらオークやら、果てはこんな化け物にまで変身するような呪いをかけやがって、四つん這いにさせて上に乗っかって歩かせたり、トリュフ探しをさせたりしやがって……」
握りしめた拳を振り上げる。
ラッシュまでの最後の距離を詰めるべく脚を踏み出す。
「そんなことで楽しそうに笑って、ふざけた名前で何度も何度も何度も何度も俺のことを呼んできやがって、自分がもうすぐ殺されるってのに俺のことを助けようとなんかしやがって……」
一気に迫る。
拳に最後の力を込める。
「死にたくないって、俺と一緒にいたいって泣いてたからだ!」
「やめ、やめろぉ!」
ラッシュが狙いもつけずに矢を放った。
アンチジェムの混ぜ込まれた鏃が俺の腕に刺さる。
だが、俺は構わずそのまま拳を振り抜いた。
「ぐおあ!」
激突の直前。
俺の身体は一気に縮み、オークを通り越して、ほぼ人間の身体に戻っていた。
まあ、それでも人一人の全力の一撃だ。
ラッシュは仰向けにひっくり返り、顔を腫れ上がらせて気絶してしまった。
「ぶー太!」
「ぶー太様!」
ハピネとヒルドが駆け寄ってくる。
俺は周りを見回した。
ハピネの処刑を見学しようと集まっていた貴族たちは一人もいない。
ラッシュの部下の兵士たちが遠巻きにこちらを眺めているだけだ。
俺はそいつらに向かって声を上げる。
「見ての通り、あんたらの主は俺が倒した! ハピネは連れていく! 彼女はもうキューブリア家とは無関係だ! だから追ってくるんじゃない! ラッシュが目を覚ましたらそう伝えておけ!」
言っても無駄かもしれない。
この男のことだ。
自分の面子とか、体面のために、どこまでもハピネを追ってくるかもしれない。
それでも、俺は魔族どもの前で、それになにより彼女のために、そう叫ばずにはいられなかった。
「ハピネはもう、自由だ!」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!