俺は息を吸う。
そして彼女の名を叫んだ。
「ハピネ!」
びくり、とハピネの身体が震える。
彼女は立ち止まってゆっくりと顔をあげた。
周りを見回す。
まるで、自分がどうしてこんなところにいるのか理解できないとでもいうように。
「……ぶー太?」
「こっちだ、ここだよハピネ」
呼びかければ、ハピネはようやく檻のほうを見た。
その顔はまるで別人みたいだった。
生意気な笑顔も、わがままな怒り顔もなくて。
ただツルッとした仮面みたいな無表情が貼りついている。
死ぬことに対する恐怖も、悲しみさえも、そこには表れていなかった。
「ぶー太、なんでいるの? 逃げたんじゃ……」
そう言いかけて、混乱したように頭を振るハピネ。
心を閉しすぎて、記憶すら曖昧らしい。
ハピネは頭を抱えて、その場にうずくまる。
「ハピネ!」
「だめ……やめて、話しかけないで。もう、いいのよ。もう終わりだから」
「終わりじゃねえよ。勝手に終わらせるな」
俺は呼びかける。
今しかない。
ハピネの本音を聞き出せるのは今しかないんだ。
「こっちを見ろ。俺の声を聞け。ハピネ――」
「うるさいっ!」
キンキンと耳に響く高音で叫ぶハピネ。
しかしその声はどこかかすれていた。
「話しかけるな! 逃げろって言ったのに! ちゃんと命令したのに! なんで逃げてないの! 言うこと聞きなさいよ奴隷なんだから!」
ハピネはひぐっと息を詰まらせ、顔を背ける。
「なんで、なんでよぉ……」
ハピネが、この場の主役のはずの彼女がこんなに声を上げているのに、貴族たちは関心を示さない。
ヒルドだけが辛そうに顔をうつむけている。
ラッシュは……冷めた目で、こちらを観察している。
「……お前を助けるためだ」
俺は静かに告げる。
誰も注目してないのが幸いだ。
ラッシュには聞こえているが、彼は俺がオーク化してもこの檻を破れないとわかっている。
無駄な悪あがきと思うだけだろう。
「お前を助けるために俺は戻ってきたんだ」
「やめて、そんなのできるわけ――」
「できる」
俺は断言する。
できるんだよハピネ。
お前が最後の時を過ごすために俺を屋敷に連れてきたから。
少しでも仲良くなるために、昔の愛犬と同じように俺を扱ったから。
そのために豚化の呪いをかけたから。
だから、
「俺はお前を助けることができる」
強い語調に、思わずという感じでハピネは俺を見る。
仮面のような無表情。
その仮面は、今にも割れて、崩れて、壊れてしまいそうだ。
「だから教えてくれ、ハピネ。今お前が本当はどうしたいのか。本当の願いを聞かせてくれ」
たぶん、俺は。
まだ一度もそれを聞いたことがないんだ。
言われるままに豚になって、彼女を乗せて屋敷中を駆け回ったり。
見つけられもしないトリュフを探したり。
彼女の命令には何度も従ってきた。
けど、ハピネが、本当に願っていること。
幼いころから植えつけられた運命のせいで、絶対に無理だと思い込まされて、心の奥底に封印してしまっていること。
俺はまだそれを聞いてない。
だから聞きにきたんだ。
「ハピネ――お前はここで死にたいのか、死にたくないのか、どっちなんだ」
「わた、私は……」
仮面にヒビが入る。
「耳を貸すな、ハピネ」
ラッシュが口を挟んできた。
「この場でそんな態度を取るなど見苦しいぞ。キューブリア家の者としての誇りを――」
「黙れよ!」
俺は咆哮する。
人とは思えない声が俺の口から飛び出して、ラッシュも、周りの貴族たちも目を丸くする。
はっ! オークの発声だ、なめんなよ。
「あんたの出る幕じゃねえ! 俺が! ハピネに訊いてんだ!」
「ぶー太……」
「さあ答えろハピネ! 願いを言えよ! お前の豚奴隷がそれを絶対に叶えてやる!」
仮面が割れて、崩れて――
「私は――」
「ハピネ、やめろっ」
「ハピネえ!」
――壊れた。
「死にたくないよおおおおおおおおおっ!」
ぐしゃりと歪んだ顔から、ボロボロと涙をこぼして。
ハピネはすごく情けない声でそう叫んだ。
後ろ手に拘束されているので、顔を拭うこともできない。
涙はひたすら彼女の顔を濡らし、ボタボタと垂れ落ちていく。
「死にたくない! 死にたくないよぶー太!」
ハピネは兵士たちを振り切って檻の前に駆け寄ってくる。
「やだよぉ死ぬのやだぁ! 助けてよぶー太! お願い! お願いだから助けてよぉ!」
何度も何度も叫びながら、ガンガンと檻に身体をぶつけてくる。
態度を豹変させたハピネに、周りの貴族たちはざわめく。
ラッシュが吐き捨てるように言った。
「くそ、まったく見苦しい」
「見苦しくなんかねえよ!」
俺はそんなヤツを睨みつけて叫ぶ。
「こんな小さい子供だぞ! お前の妹だぞ! それが下らない理由で殺されそうになってて、死にたくないって願って、それのどこが見苦しいんだ!」
「黙れっ」
ラッシュは檻を蹴りつけてくる。
「人間種が偉そうに喚くな。これが我ら魔族の繁栄の礎となる伝統――」
「知らねえよ」
俺は吐き捨てる。
「だったら滅べよ、そんな伝統」
「ぶー太……?」
「安心しろハピネ」
俺は笑って彼女を見る。
笑顔を見せたのは、ひょっとしたら初めてだったかもしれない。
「絶対に助ける」
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