薄暗い廊下から、明るい室内の様子を窺う。
そこにはラッシュとハピネがいる。
ラッシュは柔らかそうな椅子に腰かけ、手にワイングラスを持っている。
彼と向かい合うようにしてハピネが立っていた。
ハピネは後ろ手に拘束され、左右には兵士が立っている。
……とても、兄妹が仲良く会話するような状況ではない。
「バカなやつだな、お前は」
事実、そんなふうにハピネに言うラッシュの口調は、どこかあざけるような響きがあった。
「…………」
ハピネはなにも答えない。
しかしラッシュは気にした様子もなく言葉を続けた。
「屋敷でおとなしくしていればまだ少しは生きられたものを。わざわざ我が城まで赴いて死期を早めるとはな」
「…………」
「しかも、なんだ? せっかく与えられた最後の願いが『これ』か?」
ラッシュはそう言って、卓上に置かれていた紙切れを手にとった。
あれは……宿屋で俺がハピネに書かせた手紙だ。
ラッシュに対し、アンチジェムを持ってくるよう頼む内容。
ただし、俺には魔族の文字が読めないので、実際になんて書いてるのかはわからない。
ありがたいことに、ラッシュは手紙の文を音読してくれる。
「『私に与えられた、最後の願いを叶える機会を今お与えください。私が連れている奴隷の体内にあるモーフジェムを無効化するため、お兄様が所有されているアンチジェムをお貸しいただきたいのです』……はっ! なんだこれは。しかもこの奴隷が人間種ときた」
ラッシュは苛立たしそうに手紙を放るとハピネを睨む。
「正気か? 本当にこんなものがお前の最後の願いか? どうせ面白半分にモーフジェムを食わせて、後から情が湧いてきたのだろう」
「違いますっ」
そこでハピネが初めて口を開いた。
彼女は、俺が今まで見たこともないような真剣な表情で、兄に告げる。
「私は本当に、ぶー太を……助けてあげたくて……」
「それでメイドに命じて逃したのか。バカな!」
ラッシュは声を荒らげる。
「お前はその場その場の感情に流されているだけだ。人間種の奴隷を気まぐれで飼って、今になって助けたいなど、くだらん」
違う。
俺は叫びたくなった。
俺もずっとそう思っていた。
わがままお嬢様が道楽で奴隷を買って、面白半分に豚化させて、気まぐれに情愛が湧いてるだけなんだって。
けど、彼女は初めから、俺と仲良くなりたいと思っていて。
ただ、その正しいやり方がわからなかった。
それだけなんだ。
けど、彼女のそんなズレた愛情表現は、兄であるラッシュにすら通じない。
「いいか。よく考えろハピネ。『最後の願い』は死する血族に与えられる高潔な権利だ。キューブリア家の繁栄の礎となるお前に、この世への未練を残さないようにするための契約なんだ。人間種の奴隷ごときのためにそれを使うな。ちゃんと、本当に自分が望むものを言ってみろ」
ふざけんな、なにが高潔な権利だ。
どう考えてもそれは、殺される側じゃなくて殺す側が、自分の心が痛まないように押し付けている理屈じゃないか。
ハピネ自身の本当の気持ちなんかどうでもよくて『オレたちは相手が満足できるように精一杯手を尽くしました』ってアピールしたいだけだ。
「……ぶー太を、助けてほしい。私の願いはそれだけです」
ハピネはあくまでそう告げる。
ラッシュは深々とため息をついた。
「人間種の奴隷を逃したなど、キューブリア家が笑い者になる」
けっきょくはお家柄が大事、というわけか。
ラッシュは立ち上がると、ハピネに歩み寄る。
「特に『最後の願い』がない者には、最高級の食事を供する決まりだ。考えが変わらないなら、明日の宴会を楽しみにしておけ」
「お兄様!」
ハピネは悲鳴のように兄に呼びかけるが、ラッシュは取り合わない。
そのまま続き部屋に立ち去ってしまった。
くそ、なんて兄貴だ。
これが魔族なのか。
それともキューブリア家がおかしいのか。
ともあれ、今のこの状況はチャンスだ。
兵士二人くらいならオーク化すればなんとかなる。その後窓を割って外に逃げ出せばなんとかなるはず。
俺はオーク化して部屋に飛び込んだ。
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