「ぷはぁ!」
俺は必死に堀を進んで水面から顔を出した。
なにしろ両腕が手錠で拘束されたままなのでまともに泳げない。
堀がそれほど深くなかったのが救いだ。
「くそ……あのメイド、無茶しやがって」
悪態をつくが、俺の内心はそれどころじゃなかった。
ヒルドが最後に言った言葉が頭から離れない。
ハピネが――兄のラッシュに殺されることになっている?
どういうことだ……。
「おい、逃げたやつはどこに行った!」
城門からラッシュの城の兵士たちがわらわらと姿を現す。
俺は慌ててその場を離れた。
走って城から少しでも離れる。
兵士に見つかりそうになったら身を隠し、ついでに手錠を外せる鍵を鍵束から探す。
兵士がいなくなったらまた走る。
そんなことを繰り返しているうちに、麓の街まで戻ってきた。
手錠は運よく途中で外すことができた。
けど、こんなところに来たからってどうなるんだ?
俺は人間種で、ここは魔族領のど真ん中。
誰に頼んだところで助けてくれるやつなんかいない。
ひたすら歩いて、魔族領の外まで逃げられるだろうか。
そもそもそんなことをしてなんになる?
ハピネは……俺が逃げることを望んでいたという。
それが最後の願いだと。
最後? 最後ってなんだよ。
なんであいつは兄に殺されるんだ?
くそっ、俺のことを奴隷として買って、豚にしたクソガキだぞ。
そんな奴のことなんて構わず。人間の土地まで逃げればいいじゃねえか。
けど……まるでハピネのいるあの城に引っ張られてでもいるみたいに、俺の足取りはだんだん重くなっていく。
ダメだダメだ。
これはきっと腹が減ってるんだ。
それで動きが鈍くなってるだけ。
魔族の小娘のことなんか構うな。
「……ん?」
とりあえずどこかで食べ物を盗むか、なんて考えながら歩いていると、道端に見覚えのあるものが落ちていた。
俺が頭に巻いていたフード代わりの黒布だ。
見れば、そこは城に行く前にとった宿屋だった。
黒布は、ラッシュに連れていかれるときに落ちたらしい。
どこに行くにしても顔を隠すものはあったほうがいい。俺はそれを拾う。
そしてそれを頭にかぶったところで声をかけられた。
「おい、お前」
「っ……!」
とっさに身構えながら見れば、宿屋の主人が玄関から顔を出していた。
マズい、顔を見られたか?
「お前、ハピネ様と一緒にいた使用人か?」
「……あんた、彼女を知ってたのか」
この街の人間は誰もハピネに気づいていなかった。
彼女もこの街にはほとんど来たことがないと言っていた。
宿屋の主人は頷くと、
「ああ、昔、お会いしたことが――お前、人間種だったのか」
主人は言葉の途中で驚きの声を上げる。
くそ、バレたか。
俺はその場を走り去ろうとする――が、タイミングの悪いことに、兵士たちが姿を表した。
こんなところでもたもたしている場合じゃなかった。また捕まってしまう。
「おい、こっちに来い!」
「え?」
逃げ場をなくして身動きが取れなくなっている俺を、主人が腕を掴んで宿屋の中に引きずり込む。
「え、なんで?」
「いいから奥に引っ込んで、黙ってろ」
主人は俺をカウンターの裏に突き飛ばす。
俺が隠れるとほぼ同時に、宿屋に兵士たちが入ってきた。
「こんな夜更けに何事です?」
「城から人間が逃げ出した。怪しい者を見かけていないか?」
「人間が! いえ、知りませんね」
「そうか。見つけたらすぐ知らせろ」
「承知しました。お勤めご苦労様でございます」
兵士たちは入ってきたとき同様、騒がしく出ていった。
鎧のガチャガチャいう音がだんだん小さくなる。
「おい、もう出てきていいぞ」
「……助かった」
「ふん、人間に礼を言われる日が来るとはな」
宿屋の主人は小さく鼻を鳴らした。
俺だって、魔族に礼を言う日が来るとは思わなかったよ。
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