宿屋に他の客はいないようだった。
もともといなかったのか。
あるいはさっき俺たちがラッシュに捕まった騒ぎのときに出ていってしまったのかもしれない。
主人は俺を椅子に座らせると、スープを用意してくれた。
自分用にも一杯注いで、俺の向いに腰を下ろす。
「ハピネ様はどうされた?」
「わからない。あの城に捕まってるはずだ」
俺は主人に簡単に事情を話した。
村が襲われ、奴隷として売られたこと。
ハピネが俺を買い、豚化のモーフジェムを埋め込んだこと。
その呪いを解くためにラッシュの元を訪れたこと。
ラッシュはなぜか、俺とハピネとヒルドを拘束したこと。
ハピネの『最後の願い』で、俺はヒルドによって逃されたこと……。
もちろん、面倒を避けるため、俺がハピネに反逆して、ここまで無理やり連れてこさせたという部分は省略した。
「そうか……」
主人は話を聞き終わると、しみじみといった様子で呟いた。
「昔よりずいぶん大きくなっていたし、昔も一度見かけたきりだったから、まさかと思ってたんだ。けど、ラッシュ様が宿に来られて『ハピネはどこにいる』と仰ったのでな」
「ん? 待てよ。ハピネ……様はあんたに、ラッシュ様への手紙を託しただろ。それで気づきそうなもんじゃないか」
べつにどうでもいいことだったが、気になって俺は問いかける。
主人は苦笑すると、
「ハピネ様はもうここを訪れることなんてないと思っていたからな。辛い思い出しかないだろう……なのに、お前のためにやって来られるなんて、相変わらず優しいよなぁ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺は、一人でしみじみしている主人に言う。
どうも、俺と彼では知っていることに差があるようだ。
それに、ハピネが優しいだって?
それこそありえない――と言いたいところだったが、俺は断言できなくなっていた。
あいつは、ヒルドのためにお礼を言ってきた。
それに『最後の願い』と言って俺を逃した。
俺の中には、まるで別人のような二つのハピネがいるのだ。
奴隷を弄んで喜ぶクソ生意気な小娘と。
歳相応に笑って泣いて喜ぶ、普通の少女と。
どっちもハピネだとしたら、その二面の理由は、きっとヒルドが言っていた事実――ラッシュに殺されることになっているという、そのことにあると思う。
その事情を、この主人は知っている。
「教えてくれ。彼女は、なんで殺されなければならないんだ?」
「……そうか。お前、人間だから知らないのか」
主人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに納得したように呟いた。
「ハピネ様はあえて言わなかったのかもしれないが……まあ今更だろうな」
そして主人は語る。
ハピネが殺されるというその事情。
そして、昔ラッシュの居城で起こった『辛い思い出』の出来事について。
俺は――頭がおかしくなりそうだった。
わけがわからない。
これまで見てきたものの意味が全部ひっくり返っていった。
ハピネの態度も、言葉も、なにもかも、すべてが俺の中で置き換わっていく。
主人の話が終わるや否や、
「あ、おい、どこに行くんだ!」
返事もせずに、俺は宿屋を飛び出した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!