「沙織。今日は天気も良いし、午後から区民プールに行かないか? 夏期講習も無いだろ?」
窓の外に広がる雲一つ無い青空を眺めながら、電話をかけてそう誘ってみると、あっさりと了承の返事が返ってくる。
「プール? ……そうね、今日は特に予定は無いし行こうかな」
「じゃあ昼を早めに食べて、一時にマンションの駐輪場で集合な」
「分かった。それじゃあ後で」
そんな短いやり取りの後、早めに軽めの昼食をすませた俺は、準備万端で駐輪場に出向いた。待ち合わせ時間の十分前には来てしまったから、さっさと自分の自転車を引き出していると、背後から声をかけられる。
「巧、お待たせ!」
「ああ、じゃあ……」
機嫌良く振り向いた俺だったが、沙織の肩越しに見える茶色の物体に、自分の顔が引き攣るのが分かった。
「ちょっと待て、沙織。背中のモノは何だ?」
「何って……、ゴンザレスに決まってるじゃない」
「それは分かるが、まさかプールに連れて行くわけじゃ無いだろうな?」
「何言ってるのよ。連れて行かないなら、部屋に置いてくるわよ」
何を言っているんだと言わんばかりのその口調に、頭をかきむしりたくなった。しかしそれをグッと堪えて沙織の背後に回り込み、沙織が背負ったリュックから上半身を出している奴を睨み付ける。
「お前……。ロッカーに詰め込まれて、喜ぶタイプだったのか?」
「そんなわけあるかっ! ちゃんとプールまで持って行って貰うよっ!」
「沙織?」
二人の間で話がついているらしい事を聞いて、俺は若干咎める口調で声をかけたが、沙織はくるんと振り向きざま、事も無げに言い返してきた。
「タオルと一緒にプールサイドに置いておけば良いわよね? 悪戯されそうになったら、この前みたいに相手を脅かせば良いし」
「騒ぎになったらどうするんだ?」
「普通のぬいぐるみのふりをすれば良いだけよ。騒いだ人間が恥をかくだけだわ」
「あのな……」
真顔で断言されて、頭が痛くなってきた。第一、どうして水が大量にある場所に行きたがるのか、こいつの気が知れない。
それで思わず沙織の肩越しに見えるゴンザレスの後頭部に向かって、悪態を吐いた。
「そもそもお前、どうしてプールなんかに行きたいんだ? 急に自虐趣味に目覚めたのか? そんなにずぶ濡れになりたいなら、いつでも俺が」
「ちちち違うからっ! 家の中ばかりだと退屈だし、色々な景色を見たいだけだよっ!」
途端にバタバタと両手を振り、リュックの中で身体を反転させて俺に向かって必死に弁解してくるゴンザレス。それにかぶせる様に、沙織も言い出した。
「電話を切った後に『どんな所?』って聞いてきたから、区営プールにしては珍しく、普通の競泳用のプールの他に、流れるプールやウォータースライダーも有るとか説明したら、見てみたいってうずうずし出して。一人で置いてくと、じめじめしてそうだし」
「…………」
まあ、確かに。
気分良く帰って来た時に、リビングにじめっとしたこいつが横たわってたら嫌だよな……。
思わずその光景を想像して、俺は溜め息を吐いた。
「俺はどうなっても知らないからな」
「じゃあ巧、今日は後ろを走ってくれる?」
「は? 何でだ?」
「このまま乗るから、万が一走行中にゴンザレスがリュックから落ちたら、拾って欲しいのよ。気が付かないまま走っちゃったら大変だし」
「……分かった」
うん、まあ確かに、沙織の自転車は俺のと同じで、籠なんか付いてないマウンテンバイクだしな。それでリュックから落下したクマのぬいぐるみが「待って~っ!!」とか言いながら公道を走ってたら、目撃したドライバーがビビって、下手すりゃ事故るか……。
交通安全と不特定多数の人間の心の平穏の為に、ここは言う通りにしておこう。
そして縦に並んで走り出したが、……奴は想像以上にうるさかった。
「うおぉぉ! 凄い! 景色が流れてるーっ!」
「ちょっと! 人の背中で五月蠅いわよ!? それに暴れて、リュックから転がり落ちないでよね?」
「分かってるって!」
大興奮で叫ぶ奴の声を耳にして、歩道を歩く人間が何人か不思議そうに視線を向ける。しかし一瞬で通り過ぎる為、誰の声なのかは判断できないらしい。
頼むから馬鹿な発言をしてくれるなよ?
五分五分の確率で、俺の発言だと勘違いされるんだからな?
そんな事を考えて、内心でひやひやしながら後を付いて行き、無事プールに到着した。
そして駐輪場に自転車を置いて、入り口で入場料を払った俺達は建物内に入ったが、ここで俺は危うく奴の暴挙を見逃すところだった。
「じゃあ後でね」
「……ちょっと待て」
「何?」
左右に分かれて、そのまま女子更衣室に入ろうとした沙織の肩を、俺は慌てて掴まえた。すると訝しげな顔で沙織が振り返ったので、顔が引き攣りそうになるのをなんとか抑えながら問いただす。
「まさか女子更衣室に、そいつを連れたまま入るつもりじゃないだろうな?」
「は? 連れて行くわよ? だって私の荷物だもの」
駄目だ、こいつ分かってない……。
不思議そうにあっさり言い返された瞬間、俺は手を伸ばして沙織のリュックから奴を勢い良く引き抜いた。
「うわわっ! 何すんだよっ!」
何をする、だと?
全然分かって無い凸凹コンビのお前らの代わりに、俺が適切な処置をしてやろうって言ってんじゃねぇか!?
「……俺が預かる」
「はぁ?」
「ちゃんとプールサイドには持って行く。それじゃあな」
「ちょっと! 巧!?」
戸惑った顔で沙織が慌てて追いかけてきたが、さっさと男子更衣室に入った。さすがに沙織も中に入ってくる様子は無く、空いているロッカーを探しながら、奴を顔の位置まで持ち上げて凄んでみせる。
「何さり気なく、女子更衣室に入ろうとしてんだ。このエロ熊野郎」
「い、いや、それは邪推だから! 巧君じゃあるまいし、そんな邪心は無いよっ!! 信じて!!」
「お前……、やっぱり馬鹿だな」
「ぴいっ!?」
俺じゃあるまいしって、どういう意味だ。つくづく失礼な奴。
俺が着替える間、奴は大人しくロッカーの中で、無言で震えて座っていた。
「お待たせ、巧」
「おう、行くか」
更衣室のプール側の出口の所で、タオルを持った沙織と合流したが、ここで俺は“思わぬ”失態をやらかした。
「……あ、手が滑った」
「ふぎゃあっ! づめだぁいぃ~っ!」
足の消毒用槽の中に、“うっかり”ゴンザレスを落としてしまった。
途端に全身をバタつかせて悲鳴を上げる奴を、慌てて引き上げる沙織。
「ちょっと巧! 何やってんのよ!? ほら、あんたもちょっと黙って! 水道水で洗うから!」
「いっ、いやあもがぐばっ!」
「黙れって言ってるでしょ!?」
変な悲鳴を耳にして、少し離れた所から怪訝な眼差しを向けてくる人達を気にしてか、沙織が小声で奴を叱りつけ、消毒液を流すために横の水道に走る。そして水流で洗われる奴を見ながら、俺は必死に笑いを堪えていた。
結局、休憩を挟んで三時間程を過ごしてから、俺達は引き上げるべく更衣室に向かった。
勿論、今度も奴は俺が同伴したが、借りたロッカーの前まで来て周囲に人影が無い事を確認して着替えながら、ゴンザレスに尋ねてみる。
「ずっとプールサイドに居て、楽しかったのか?」
「ああ。人が一杯いて、賑やかだったし。小さな子供には、時々ちょっかい出されそうになったけど」
「そういえば大丈夫だったのか? 特に騒ぎにはなっていなかったみたいだが」
「大丈夫。ちょっと手を伸ばしてきた段階で、バタバタっと手を振っただけで、驚いて逃げていく様な子供ばかりだったから」
「……そのチビ達に、変なトラウマとか残らないと良いな」
確かに普通のぬいぐるみだと思い込んだ物が、急に動いたらびびるよな。本当に、騒ぎにならなくて良かった。
「しかし炎天下だけあって、すっかり乾いたな。塩素臭もしないし」
軽く奴を持ち上げて匂いを嗅いでみたが、特に気にならなかったので言ってみると、本気で怒られてしまった。
「全く! 一時はどうなる事かと思ったよっ!」
「はは、悪い悪い」
「本当に巧君って陰険だよね?」
「ほう? まだ学習していないか?」
「すみません、ごめんなさい」
薄笑いしてみると、奴は吊り下げられながらペコペコと器用に頭を下げる。その様子に思わず笑ってしまうと、ロッカーの列の端からひょっこりと見慣れた顔が現れ、声をかけてきた。
「あ、やっぱり巧だ。聞き覚えのある声だと思ったんだ」
声が聞こえた途端、ゴンザレスは動きを止めてただのぬいぐるみのふりをした。
なかなか順応性が高い奴。
「おう、慎治。お前も来てたのか。今から入るのか」
「ああ、まだ十分暑いし明るいし。人が少ない方がじっくり泳げるから」
「それもそうだな」
水泳大会での選抜選手になってるこいつは、泳ぎたくて仕方の無い奴だから、暗くなっても泳ぎそうだよな。小学生のうちは、夜間遊泳は駄目だが。
そんな事を苦笑いしながら考えていると、きょろきょろと周囲を見回した慎治が不思議そうに言い出した。
「ところで、お前一人?」
「いや、沙織と来てる」
「菅原と? それなら当然、女子更衣室の方だよな。さっき、誰と話してたんだ? 隣の列のロッカーで着替えてたんだけど、誰かと話してただろ?」
油断した……。
大声で喋ったつもりは無かったが、意外に響いていたらしい。取り敢えず、この場は誤魔化すしかないな。
「何だ、聞いてたのか。実は喋ってたのはこれだ」
そう言いながら、手にしていたゴンザレスを、再び自分の目線と同じ高さまで持ち上げた。すると奴が、ピクリと俺にだけ分かる様に反応する。
いいか? 空気読め。俺の話に合わせろよ?
「『これ』って、ぬいぐるみだろう?」
「違う。これは立派な相方だ。……さあ、ゴンザレス。こいつは学校で同じクラスの三原仁。挨拶しろ」
「やあ、仁君、初めまして。俺はゴンザレス、宜しくな!」
ゴンザレスに視線を向けながら催促すると、吊り下げられたまま奴が挨拶した。それを聞いた仁が、奴と俺の顔を交互に見ながら、驚愕の顔付になる。
「うわ、すげぇ! 巧、お前、腹話術使えんの!?」
「まだ練習中で、時々思い出した時に練習してるんだ? なぁ? ゴンザレス?」
「そうだよね。だけど巧君。最初と比べたら、かなり上達したよ?」
「そうか? それは良かった。中途半端な芸で、お茶を濁したくは無いからな」
そんなやり取りをしてみせると、仁は感心しきった声を上げた。
「マジですげぇな。全然口を動かしてる様に見えなかったぞ。今度、学校でゆっくり見せてくれよ」
「機会が有ったらな。まだ俺は満足してないし」
「この完璧主義者が。じゃあな」
「ああ」
暫くは顔を合わせたら、五月蠅いかもしれないな。
まあ、まだ夏休みはあるから、学校が始まるまでに仁は忘れているかもしれないし。何か言われたらその時はその時か。
そう腹を括って着替えを済ませた俺は、水着やタオルを詰めたリュックを背負い、奴を抱えて歩き出した。
「ゴンザレス、ご苦労だったな。お前が底抜けの阿呆じゃなくて助かった」
「全く。いきなりの、打ち合わせ無しの無茶振りは止めてくれるかな?」
「まあまあ、上手く誤魔化せたし」
「確かにそうだけどさ……」
歩きながら囁くと、奴がブチブチと愚痴を零す。
その完全に人間臭いそれに、俺は笑いを必死で堪えながら更衣室を出た。
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