菅原権太、十四歳。
僕には十一歳、年の離れた姉がいる。
両親が共働きの事もあり、専ら僕の面倒を見てくれたのは、その姉だ。だから感謝してもしきれないし、全く頭が上がらない。
しかしその姉は、実の弟の僕から見てもかなり変……、いや、少々個性的な人だ。
その思いは、僕が物心付くか付かないかの頃から、既に抱えているものだったりする。
※※※
「お待たせゴンザレス! さあ、強くて優しくて賢いお姉ちゃんの胸に、飛び込んで来なさい! しっかり抱き締めてあげるわよっ!!」
毎日夕方に自転車を飛ばして保育所に迎えに来る姉が、離れた所にいる僕に向かって、大声でそう呼ばわる光景を想像して欲しい……。
小さいうちは疑問にも思わず、とてとてと歩み寄っては姉に抱き付いていたらしいが、四歳の時に「なんでゴンザレスなんてよばれてんだよ。おかしいだろ。や~い、しすこん」と周りの子にはやし立てられて、抱きつくのを止めた。
「ゴンザレス? どうしてギュッとして来ないの?」
「だって……、れいくんとまさしくんとじょうすけくんが、おかしいって……」
怪訝そうに尋ねられた為、もじもじしながらそう弁解した途端、姉の顔が劇的に変化した。
……そう、般若に。
「お前らか、このくそガキども!!」
「え?」
「だれ?」
「あたしとゴンザレスのほのぼのタイムを邪魔する気!? ガキだからって容赦しないわよ! よってたかってゴンザレスを泣かせる気なら、あたしがまとめて泣かせてやるわっ!! さあ、文句があるならかかって来い!!」
「ふ、ふえぇぇっ!」
「怖いようっ!」
「ちょっとあなた! 子供相手に何凄んでるのよ!」
「うちの子に何をする気!?」
「あんたらの躾がなってないから、いっぺん泣かせて躾直してやろうって言ってんのよ! モンペは引っ込んでろ!」
「何ですって!!」
「躾がなってないのは、あなた自身よね!?」
僕が考えなしに、迎えに来ていた親子を指差したせいで、引き渡しの場は修羅場と化した。
驚いて声が出なくなった僕の前で、途切れなく暴言放言を垂れ流す姉。母親二人と数人の保育士を向こうに回して、その言葉は途切れる事無く続き、その後保育所内で姉に「マシンガン沙織」の異名が付いて、周囲の親から遠巻きにされる事になった。
結局、その時何故か泡を食って巧さんが保育所に迎えに来て、保育士の先生と相手の親に頭を下げ、僕の手を引き、姉を引きずってマンションに帰った。
後から聞いたが、保育所から両親に連絡がいったが、仕事で職場を離れられなかった両親が、巧さんのお母さんに事態の収拾を頼んだらしい。
その日の夜。姉は両親からみっちり怒られ、それから巧さんの家に一家揃って頭を下げに行った。
麗子おばさんはおかしそうに笑っていて、巧さんは何とも言えない表情で僕を見下ろした後、「明日、ちゃんと謝れよ?」と言い聞かせてきたので、僕はこっくり頷いた。
そしてその日を境に、何故か「ゴンザレス」と呼ばれる事は無くなったと思う。姉はかなり不満そうだったが。
「おはよう」
翌朝、いつも通りに保育所に行き、他の子供に遠巻きにされる中、僕の顔を見ただけでビビっていた三人の所に行った。
「きのう、うるさくしてごめん」
ぺこりと頭を下げると、三人は嫌そうな顔をしながら、恐る恐る言い返してきた。
「なんだよ……。あのねえちゃんが、あやまれっていったのかよ?」
「ううん。おねえちゃんは『またいじめられたら、すぐにいうのよ! こんどこそぎたぎたのずたずたにしてやるから』っていってたけど、たくみくんが『ちゃんとあやまれよ』っていったから。たくみくんのほうが、ただしいとおもう」
正直に告げたあの時の三人の顔は、今でもはっきりと覚えている。
「おまえのねえちゃん……、おっかねえな」
「うん。ぼくもこわかったから、みんなもっとこわかったよね?」
「おとうとでもこわいんだ……」
「くろうしてんな、ごんた」
その時、何かを分かり合った玲と雅史と貞介とは、今でも仲の良い友人だったりする。
それから少し時は進み、小学校に上がってからの事。
国語の授業で、ある宿題が出された。
「お父さん、宿題を書くから教えて欲しい事があるんだけど」
「うん? 何だ? 分からない所があるなら、教えてやるぞ?」
「僕の名前って、どうやって決めたの? 先生から自分の名前の由来を聞いて、作文を書いて来なさいって言われたんだ」
「…………」
その途端、上機嫌な父さんの笑顔が、ビキッと音が聞こえそうな位の勢いで固まった。
「……名前の、由来?」
「そう。教えて?」
「それは、その……」
「うん、何?」
「…………っ! 権太、すまん!!」
「え? 何が?」
痛恨の表情で、いきなり頭を下げた父さんに、僕は正直驚いた。
そしてそれから父さんの口から語られた、僕が産まれる少し前の出来事を聞いて……。正直に言うと、魂が抜けかけた。
それ位の衝撃だった。
「へえぇ? 今の今まで知らなかったな……。僕の前世って、クマのぬいぐるみだったんだ……」
姉の部屋の棚に、背中に大きな当て布をして縫い付けてある、ちょっとへたり気味のぬいぐるみがあって、その名前がゴンザレスという事は知っていた。当然、それを姉が大事にしている事も知っていたが、……まさかそれがかつて動いて喋って、姉を庇って死んだなんて、想像できただろうか?
いや……、できるわけがない。しかもそれが、僕の名前の由来……。
「いや、権太、それは違うから!!」
「分かってるよ。ちょっと冗談を言ってみただけ」
ちょっと冗談でも言ってみないと、どうしようもない気分になったからしょうがないよな。
そんな事を考えていると、父さんが涙目で訴えてきた。
「権太! 不甲斐ない俺を許してくれ!! 沙織は美和子のお腹の子が男だと分かると『名前は絶対ゴンザレスよ!』と頑として譲らないし、美和子は美和子で『そんなにゴンザレスが良いなら、それでも良いんじゃない?』って淡々としてるし!」
「……うん、想像できる」
それはもう。実に簡単に。
「だけど何とかゴンザレスだけは、回避しようと思って……。あのクマに名前を付けた時、『ゴンザレス』の他に候補に上がっていた『ゴン太』を持ち出して、何とか産まれるまでに『権太』で納得させてっ……。俺は、俺はぁぁっ……」
そう声を絞り出して、むせび泣き始めた父さんを見て、怒りの湧きようが無かった。
むしろ、憐憫の情を覚えた。
「分かった。もう分かったから、お父さん、泣かないで」
「本当に、すまんっ……」
「お父さん。頑張ってくれて、ありがとう。親孝行するから、長生きして」
「権太ぁぁっ!!」
肩を軽く叩いて優しく声をかけると、感極まった風情で父さんが僕に抱き付き、おいおいと泣き出した。
これで僕は、自分の名前と一生付き合っていく覚悟を決めた。
しかし覚悟を決めると言う事と、全てを水に流すと言う事は、全くの別物だ。
「よう、権太。久しぶりだな」
「巧さん、帰るのが随分早いね」
「今日は午後の講義が一つ、休講になったからな」
「そうなんだ……」
自分の名前の由来を聞いた翌日、学校から帰ると、偶々マンションの入口で、背後から巧さんに声をかけられた。
挨拶を返して一緒にエレベーターを待っている間、すっかり背が高くなった大学生の巧さんを見上げる。すると視線を感じたのか、巧さんが不思議そうに見下ろしてきた。
「権太、どうかしたのか?」
「……名前」
「うん?」
思わず口から出た言葉に、巧さんが怪訝な表情になる。僕はそれに構わずに、淡々と続けた。
「お姉ちゃん」
「沙織がどうかしたのか?」
「クマ」
「……え?」
「ゴンザレス」
「すまなかった!! 全面的に俺が悪かった、この通りだ!!」
僕が何の事を言っているのかを、すぐに悟ったらしい巧さんは、鞄を放り出してその場で土下座した。
ちょうどその時、エレベーターが下りてきてドアが開き、中に乗っていた人が降りようとして、目の前の光景を見てギョッとした様に立ちすくむ。それに「どうぞお構いなく」と促して、巧さんの後ろを通って貰ってから、僕は屈み込んで巧さんに声をかけた。
「巧さん、そんな風に謝らなくって良いよ。僕子供だから、ちょっと一回だけ、嫌みを言ってみたくなっただけだから」
「ごっ、権太……」
ゆっくり顔を上げ、涙目で呻いた巧さんを、僕は本当に気の毒に思った。
「巧さんに悪気は無かったのは分かってるよ。最終的に名前を決めた責任はうちの家族にだけあるから、気にしないで」
「権太……、お前っ、いい奴だなっ!!」
そして父さん同様、また抱き付かれて泣かれた。もうこの話はこれでおしまいにしようと、自分の中で気持ちを整理した瞬間だった。
結局、宿題をどうしようかと少しだけ悩んだが、別に自分は悪くないし、嘘を吐くのはいけないと思ったので、僕は父さんから聞いた内容を、隠す事無く全て正直に書いた。
「……と言うわけで、僕の名前が権太に決まりました。僕の家族の中でお姉ちゃんが一番強いのが、これで良く分かりました。終わり」
「…………」
書いた作文は一斉に先生が回収するのではなく、クラス内で指名された何人かが発表してから、回収する事になっていた。
授業時間の終盤、指名された僕の発表が終わると、教室内が静まり返り、これまで他の子の発表に関して幾つか批評していた先生も、黙り込んでしまう。僕は原稿用紙を手にしたまま、どうすれば良いのかと途方に暮れていると、休み時間にに入るチャイムが鳴り響いた。
それを契機に先生は慌てて全員の原稿用紙を回収し、なし崩しに授業を終わらせて、そそくさと教室を後にした。
「菅原くん」
「どうしたの? 山田くん」
「……苦労してたんだね」
「山田くんと比べたら、それほどでも無いよ」
その休み時間中、僕はクラスメートの一人に声をかけられた。
同じクラスの山田くん。彼のフルネームは、山田光宙だ。
その直後、僕は彼と「光宙」「権太」と呼び合う仲になった。
その後、光宙に話を聞いたと言って、他のクラスの子達からも次々に声をかけられて仲良くなった。因みに皆の名前は、詩譜音、唯一神、澄海、精志、泡姫だ。
世の中にこれだけ迷惑な身内がいる子供が存在しているのかと驚いたが、それはまだまだ序の口だった。
光宙に、校内のとある組織を紹介されたのだ。
それは当て字キラキラ系、DQN系、難読難筆系、その他諸々をひっくるめた《困ったネーム同盟》略して《KND》なる集まりで、この事がきっかけになって参加が認められてしまった。
(一応断っておくが、自分から参加を申請した覚えは無い)
それに伴って、同学年の横の繋がりと同様に縦の繋がりも発生し、上級生には「非生物転生系」として結構可愛がられた。
(当時全然意味が分からなかったし、今でも分からない)
それから下級生が名前の事でからかわれていれば、姉譲りのマシンガントークで相手を徹底的にやりこめて粉砕し、大層懐かれてしまった。
(ついたあだ名が『ショトガン権太』。どうしてだろう? 僕は無差別に、周囲を攻撃した覚えは無いのに)
そんなこんなで、結構濃い小学生時代を過ごしたと思う。
「あ~ぁっ! 中学に入学したら、また名前で散々からかわれるんだろうな~」
「こればっかりは、諦めるしか無いわよね」
「俺は絶対成人したら申請して、名前を変えるからな!」
「そうだな。それまで強く生きようぜ」
僕達が住んでいる地域は、中学は自由選択制なんて制度があるため、区内の公立中学校を割と自由に選べる。それに私立中学も結構あるので、僕達の学年のKNDメンバーは、全員の進学先が見事にバラバラになった。
卒業前に集まり、また進学先の学校で名前の事でからかわれたり、冷やかされたりするんだろうなと、うんざりした顔を見合わせて慰めあったのだが……。いざ進学してみたら、各学校で同志がゴロゴロいたらしい。
「これで良いのか。ああいう大人がゴロゴロいて、日本の未来は本当に大丈夫なのか?」
ゴールデンウイークにメンバーが全員集合し、コーラ片手にポテトを摘みながら、真剣に意見を交わしあったのは記憶に新しい。
※※※
……大幅に話が逸れた。
日曜に友達と遊びに出かけて帰宅したら、その姉が家に来ていたのだ。
「あれ? お客?」
玄関に脱いであった見慣れない靴を見て、見当を付けながらリビングに入ると、そこには予想通り、結婚二年目の姉夫婦がいた。
「ただいま。やっぱり姉さんが帰って来てたんだ。巧さんもお久しぶりです」
「権太! ちょっと聞きたい事があるんだけど!?」
「……何?」
「おい、沙織!」
挨拶もそこそこに、駆け寄って来た姉が僕の肩を掴んで、鬼気迫る形相で尋ねてくる。
「『破れ鍋に綴じ蓋』って、どういう意味だと思う?」
「はぁ?」
「さあ、答えて!」
「ええと……、どんな人にもぴったりの相手がいるって事だよね?」
これで間違っていない筈だけどと、少々自信なさげに答えると、姉は嬉々として自分の夫を振り返り、確信に満ちた声を上げた。
「ほら、見なさい! やっぱり権太は、何か違うと思ってたのよ。頭が良いし気が利くし、素直で空気が読めるもの! だから今度こそゴンザレスなのよ!」
「そんなわけあるかっ!! 頼むから冷静に考えろ!」
「私はいたって冷静よ! 訳が分からない事を言ってるのは、あんたの方でしょう!?」
目の前で展開されている激しい言い争いに度肝を抜かれ、僕は両親の側まで行って、小声で尋ねてみた。
「何? これは一体、どういう事?」
「沙織に子供ができたのよ」
「あ、今日はその報告に来たんだ。良かったね」
それでどうして喧嘩になるのか、さっぱり分からなかったが、父さんがその理由を溜め息混じりに説明してくれた。
「ところが、そうでも無いんだ。沙織が『男だったら名前をゴンザレスにする』と言い出して……」
「ああ、そういう事か……」
やっと理由が分かった。だから『僕』がゴンザレスじゃないんだ……。
思わず遠い目をしてしまった僕の目の前で、姉夫婦の激しい論争が続いた。
「巧だって、あの時言ってたじゃない! 『ゴンザレスは馬鹿で間抜けだったから、うっかりフライングで来たんだろ』って。だから1ヶ月早めに来たんじゃなくて、十四年早めに来ちゃっただけよ!?」
「そんなわけあるかっ!! 寝言を言ってないで、いい加減目を覚ませ!!」
「やっと納得できたわ。あれだけ間抜けなゴンザレスが、1ヶ月やそこらの時間差で来れる筈が無かったのよ……」
「そこで一人でしみじみ納得するな! 俺の話を聞け!」
どう見ても平行線の姉夫婦の主張に、僕は二人を指差しながら両親に尋ねてみた。
「これ、どうするの?」
「どうもこうも……」
「どうしようも無いんじゃない?」
完全に匙を投げた風情の両親に、そうだよねと頷く僕。
この反応は、間違っていないと思う。
「もうーっ!! ごちゃごちゃ五月蠅いのよ! 名前に文句を付けるなら、あんたとは離婚よっ! ゴンザレスは私だけで、しっかり育ててみせるわっ!!」
「どうしてそうなる!? お義母さん、こいつに何とか言ってやって下さい!」
かなり切羽詰まった口調で巧さんが訴えてきたが、母さんの返事は無情なものだった。
「何とかって言われても……。そんなにゴンザレスにしたかったら、そうしても良いんじゃない? やっぱり子供の名前は両親が責任を持って決めるべきだと思うし、祖父母が横から口を挟むのはどうかと思うわ」
うん……、予想はしていたけど、安定の動じ無さだね、母さん。
「お義父さん!」
「すまない、巧君……。俺は権太の時に、気力を振り絞ったから……。それを今もう一度、繰り返す気力は……」
やっぱり俺の時に、相当頑張ってくれたんだね……、父さん。
「権太! お前だったら分かってくれるよな!?」
「……ファイト」
「権太ぁぁっ!!」
巧さんのその悲痛な叫びにさすがに胸が傷んだが、僕が何をどう言ったって、姉さんが聞いてくれる筈無いから諦めて欲しい。
「さあ、文句は無いわね。男だったら名前はゴンザレスに決定だから」
「決めるな! お前、子供の将来を何だと思ってる!?」
そして再びギャイギャイ論争し始めた二人から目を逸らし、「宿題があるから」と両親に断りを入れて、自分の部屋に引っ込んだ。取り残された両親からちょっと恨みがましい視線を向けられたが、無視だ無視。
「何で実家まで来て喧嘩してるんだか……。自分の家ですれば良いだろ……」
だけど学校の授業で、あのことわざの意味を取り上げてくれてて助かったな。
それまでどうしてだかは分からないけど、「割れた鍋は蓋代わりに他の鍋に被せて閉じて使う事しかできない様に、本来するべき行動ができない人」の事だと勘違いしていたし。
皆の前で、恥をかかなくて良かった。
そんな事をしみじみと考えてから、僕は荷物を置いて机に向かった。
産まれてくるのが、女の子って可能性もあるしな。でも甥だったら……。
ちょっと困った事になりそうだけど、試練に打ち勝ってこそ強い人間になれる筈……、だと思う。
「……うん、たとえ名前がゴンザレスになっても、頑張れよ? 叔父さんは応援してるからな?」
そして僕は巧さんの奮闘を祈りつつ、気持ちを切り替えて明日提出の宿題に取りかかったのだった。
(完)
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