姉ちゃんが普通の病室に移ってから半年、人工心臓が正常に動いていることが確証され、姉ちゃんは晴れて退院することができた。と言っても下半身が不調を起こしているせいで排泄ができず、週に3日病院に人工透析に行かなければいけなかった。結局のところ病院通いは終わらなかった。それに、姉ちゃんは車椅子生活を余儀なくされていた。仕方のないことではあるが、自由に行動できない姉ちゃんを可哀想だなと思っていた。
それでも、姉ちゃんが病院ではなく、我が家で過ごしている日々を俺は過去で一番嬉しく思っていた。例え、近所の人々に同情の生暖かい眼差しを向けられても。
ある日の朝、ゴミ捨てに出かけた。町内のゴミ捨て場が丁度我が家の前にあるおかげで、ゴミ捨ての面倒臭さは一切なかった。
ゴミを捨てに行くと、丁度タイミングが被ったのか、すでに近所のおばさん達がゴミ捨て場の前で立ち話をしていた。
「あら、唐澤さんちの」
「幸くんよね。こんにちは。」
「あ、どうも。」
「どう?元気にしてた?ちゃんと食べてるかしら。」
「まぁ、一応。姉ちゃんにちゃんとしたもの食べさせないとなんで、自然と俺の食生活も健康的にはなってますね。」
「そう!尚ちゃん!大変だったわよね。旦那さんもお子さんも亡くなっちゃうなんて。」
(近所の情報網って、どうしてこーも伝達が早いのだろう。俺の口から姉ちゃんの子どもが死んだ話はしてないはずだが。)
「今は車椅子なんでしょう?幸くんも大変よね。やりたいこと、できてないでしょう?」
「そうよね。今、高校…何年生なの?」
「高3です。」
「あらもうそんなに。大きくなったわね。どうりで私も老けるわけだわ。」
「私なんかまたほうれい線が深くなっちゃってね。」
(話が脱線した。もう帰っていいかな。おばさんたち話が長いんだよな。)
俺はなんとか話を切り上げて帰ろうとした。
「まぁでも、俺なんかより姉ちゃんの方がやりたいこともできなくて可哀想ですから、俺がちょっと苦労するくらいどうってことないですよ。それじゃ、俺帰ります。」
「あ、じゃあね。そう言えばね、」
俺がいなくなってからも井戸端会議は終わらなかった。
その日の夜、姉ちゃんの様子が少し変だった。飯も全然食わないし、表情がいつも以上に暗かった。
「姉ちゃん、どーしたの?」
「なんでもない。私もう寝るから。」
それだけ言って自分の部屋に戻っていった。
この時姉ちゃんの様子をもっとよく確かめておくべきだったと思う。
次の日、人工透析のため姉ちゃんを連れて病院へ行った。暇をつぶして3、4時間ほど経った頃、医師から電話がかかり、姉ちゃんを迎えに行った。
病院の出入り口まで医師と看護士が車椅子を引いてきた。
「お待たせ致しました。本日もお姉様に異常はありませんでしたので、診察室ではなくこちらで御挨拶を、と。」
「いえ、こちらこそいつもありがとうございます。」
「にしてもすごいですね。お姉様の血液はものすごく綺麗ですよ。もちろん腎臓が働いていないので、健康的とは言えませんが、それでも不健康な食事をしていたらここまで綺麗な状態ではいられません。弟様はすごく食生活に気を遣ってらっしゃるのですね。」
「まぁそれなりに。添加物とか入ってたら、ろ過できなくてずっと姉ちゃんの体内を巡り続けるんだろうなって思って。一応気にかけてはいます。」
「いや、本当に素晴らしいですよ。本当、お姉様想いですね。」
俺と医師が思ったより話に花を咲かせてしまっていたため、気づくのが遅くなった。一番最初に事態に気づいたのは隣にいた看護士だった。
「尚さん!」
看護士が大きな声をあげる。ドキッとした俺と医師が声が向いている方向を見ると、姉ちゃんが自分で車椅子を動かし、道路の方に向かっていた。さらに姉ちゃんが飛び出そうとしている道路にミニバンが向かってきていた。
「姉ちゃん!!」
俺は持っている全ての力を出し、脇目も振らず走った。ミニバンの運転手も車椅子が飛び出してくることに気づいたのだろう。しかし遅かった。今からブレーキを踏んでも間に合わないだろう。それでも全力でブレーキペダルを踏み込む。ブレーキの音が辺りに響く。次いでガッシャンという音が聞こえる。
ミニバンの正面向かって右側が凹んでいる。その前にはひしゃげた車椅子が横たわっている。
「大丈夫ですか!」
医師が倒れ込んでいる俺のもとに駆け寄ってくる。
俺の横にはこれまた倒れ込んでいる姉ちゃんがいた。俺は衝突する前になんとか姉ちゃんを引き上げることに成功したのだ。
「姉ちゃん、大丈夫か?!」
「………。」
「危ねぇだろ、何やってんだよ!」
「……なんで助けたの。」
「は?なんでって、そりゃ助けるだろ。」
「私が死ねば、幸は私の面倒見なくて済むじゃん。やりたいことできるじゃん。」
「意味わかんねぇ。なんの話をしてんだよ。俺のやりたいことはいいんだよ。姉ちゃんの面倒見ることが優先だろ?」
「同情すんなよ!!」
がなる様に姉ちゃんが大声をあげる。
「私がいる所為で幸のやりたいことができないなら、幸の足枷になってるんだったら、もう死んだ方がいい!」
「……。」
何も言い返せなかった。確かに俺は姉ちゃんに同情していた。父さん母さんが死んで、信志さんが死んで、お腹の赤ちゃんも死んで。可哀想だと思っていた。だからこそ姉ちゃんが何不自由なく過ごせるように面倒を見ていた。しかしそれは姉ちゃんからしたら、姉ちゃんの心の傷を抉っているようなものだったのだ。
柄にもなく姉ちゃんが声をあげて泣く。
俺は一言、「ごめん。」としか言えなかった。
「落ち着いた?」
「…うん。」
医師が院内の多目的ルームを特別に貸し切ってくれた。部屋には俺と姉ちゃんしかいない。窓の外はすっかり暗くなっていた。
机を挟んで俺と姉ちゃんが座っている。
「俺、たしかに姉ちゃんのこと可哀想だって思ってた。姉ちゃんが何も苦労しないで暮らせる状況を作ることが俺の役目だとばかり思ってた。でも、違ったんだね。」
「…うん。」
「ホント、ごめん。」
「…うん。」
「これからはもっと、姉ちゃんを頼ることにするよ。車椅子だからって容赦しねぇからがんばってな。」
「うん。うん。」
少し優しい笑顔を浮かべる姉ちゃんに、こっちも少し頬が綻ぶ。
「よし、帰るか!」
「うん。」
俺と姉ちゃんはまた少し姉弟として成長できた様な、そんな気がした。
「わぁ、すっごいキレイ!」
姉ちゃんが子どものようにはしゃいでいる。ここは俺たち姉弟が昔から遊び場として利用していた公園だ。小さな公園ではあるものの、端っこに一本だけ桜の木が植えられている。春になると朗らかに咲き、小さな公園を彩ってくれる貴重な存在だ。
新種のウイルスの影響で人々が外出しなくなっている今、子どもさえも公園で遊ばなくなっているので、現状この公園は俺たちの独壇場となっている。絶好のピクニック日和の中、レジャーシートを敷き、姉ちゃんを車椅子から降ろす。姉ちゃんが自分の作った弁当をバッグから出してくる。
「じゃーん!どーよ、割と美味しそうでしょ?」
「お、いい感じじゃん。俺のはこんな感じ。」
リュックから俺の作った弁当を出して見せる。
「もー!幸のヤツの方が美味そうじゃん!わかってはいたけど腹立つー。」
こんな他愛もない会話ができる幸せは、きっと他のことでは感じられないだろう。俺は、姉ちゃんと暮らす『今』を、一生かけて大切に味わっていこうと思った。
姉ちゃんが俺の頭に手を伸ばす。
「ほら、桜付いてた!」
桜の花びらを摘んでいる姉ちゃんは、いい笑顔をしていた。
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