夜が明けた。正確にはまだ明けきっていない。スマホの時計を見ると、時刻は午前5時をちょうど回ったところだった。結局のところ、全然眠れなかった。疲れが抜けきってなくぐったりした気分である。
勝はまだ寝ている。今のうちに一旦家に帰り荷物を取って来たいが、こんな小さな子、それも病気の子一人置いていくことなんてできない。もし万が一を考えたら……。
私は電話ができる場所を探し、持っていたスマホから迷うことなくとある人物に電話をかけ始めた。
「…あ、もしもし?母さん。」
母である。
「なぁに?こんな時間に。大した用じゃなかったらぶっ飛ばすわよ?」
「ごめんごめん。あのね…あのね、勝が新種のウイルスに感染して…。」
「えっ!?あっ、ホントに?」
「うん。でさ、一旦家に戻って荷物とか取り行きたいんだよね。」
「はいはい。あ、お父さん?ごーめんごめん…」
母の声が電話の通話口から段々遠ざかっていく。おそらく先ほどの大声で父が起きてしまったのだろう。
「ごめんごめん!で、なんだっけ?」
「あぁ、うん。でね、荷物取りに行ってる間、勝のこと見てて欲しいんだよね。また何かしたら…。」
「うん!わかった。支度終わらせて、たぶん9時くらいには行けるかな?そんな感じで。」
「うん。ありがとう。じゃあまた後で。うん、はい、じゃあね。」
通話を終え病室に戻ると、勝はもう起きていた。
「おはよう、勝。りんご食べる?」
午前8時半。予定よりも早く母が来た。
「お待たせ〜。」
「あっ!ばっちゃん!!」
勝が嬉しそうな声を上げる。勝は父方の祖父母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼び、母方の祖父母をじっちゃん、ばっちゃんと呼ぶ。
「母さんありがとう。じゃあよろしくね。」
「はいよ。」
「ママどこ行くの?」
「ママね、ちょっとだけお家戻って、お洋服とか取ってこようかな。その間ばっちゃんと一緒にいい子にしててね。」
「うん。いってらっしゃい!」
一度勝の頭を撫で、私は病室を出た。
病院の駐車場は広い。端っこに停めたからそこまで歩くのも疲れた。車のエンジンをかけると、ガソリンメーターはだいぶ下を向いていた。
「途中でガソリン…どっかやってるとこあったかな。」
独り言を言いながらアクセルを踏み、車を動かす。
街は誰もいない。道路沿いに何軒かお店はあるものの、営業はしていない。道路だって、私の車以外では先ほど対向車線で一台すれ違ったくらいである。
皆がみな、ウイルスの恐怖に怯えながら、家に篭っているのである。
結局、通り道で営業しているガソリンスタンドは一軒も無かった。
10分ほどで家に着いた。駐車場に旦那の車があるので、おそらく仕事から帰ってきてるのだろう。
「ただいま」
「どこ行ってんだ!」
突然怒鳴り声が響く。
「いや、」
「どこ行ってんだって聞いてるんだ!こんな非常時に、勝まで連れ回して!もしどこかで感染でもしたらどうするつもりなんだ!お前のその考え方が甘いんだよ!」
罵詈雑言の雨霰、少々心が砕けそうになる。それを踏ん張って、状況を説明しようとする。
「あのね、勝が新種のウイルスに感染して。それで、」
「は?何言ってんの?」
「え?だから、勝が」
「お前なんなの?なにしてんの?なんで帰ってきたんだよ!おい、俺に移ったらどうすんだよ!おい!離れろよ!俺から離れろ!近づくな、あぁ!」
叫びながら歩き回り、家中の窓という窓を開けていく。
私は何もできず、ただ茫然としていた。強い脱力感と虚無感に襲われた。足に力を入れて、立っているのが精一杯だった。
私の意図は察してくれたのか、大きなボストンバッグに私と勝の服をたくさん詰め、投げつけてきた。
「二度と帰ってくるな。」
私は何も言い返せず、何もできず、ただ家を後にした。
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