僕達はここの隣町にある美咲が乗る電車の来る駅舎まで歩いていくことになった。黄昏さえも血液の様に見える夕刻、どうしようもない自責の念が心を覆い尽くしていた。――人を殺したこと、汚れた自分が彼女の隣に立っていること。挙げ句の果てには、黄昏に染まる世界の全てが気に入らない、そんな気にさせた。駅舎へ行く道中、彼女は自らの事情について事細かに話してくれた。家族の中で唯一自分だけが違う県へと引っ越さなければならないこと、そしてそれは親族の決めた相手と美咲が結婚しなければならないからだということ。勿論彼女は反対したそうだが、微塵も相手にされなかったのだという。
進んでいくと、人影や建物もめっきりとその数を減らしていてまるで町全体が孤独を運んできているようだった。道路橋を走る車の音だけが寂しく響くのが何だかとても物悲しく思えて僕は足を止め、美咲もまた僕に合わせて足を止めた。道路橋から見える宵に沈む黄昏を移した河川をただ眺めていた。――沈む光なら、いっそのこと最初から僕達を照らしてくれなければ良かったのに。
隣町に付いたころに、僕は薄暮の空をを振り返った。地平線に残る微かな黄昏さえ僕の心をぎゅっと押さえつけた。空も、太陽もいつだって無情だ。振り返る僕を横目に美咲はもう半分、宵だけになった世界と向き合って、振り返ることをしなかった。
駅舎に付くまでに僕も美咲もひとつとして言葉を交わさなかった。隣町に近づいていくにつれ消えていく喧騒がまるで僕と美咲の距離のようで少し怖かった。美咲がどう思っていたかは分からないが僕としては、もうどんな言葉を紡いでも灰になって消えてしまうように思えた。人を殺した僕の言葉なんて夏の風だって運んでくれはしない。
駅舎は僕が思っていたよりもずっと古めかしいものだった。ぽつりと寂しく佇むそれは、瓦の屋根を被り木造の材質を纏っていて僕の知る限りの駅舎というよりは、小屋と言ったほうが近いとも思えた。そんな小屋同然の小さな駅舎で僕と美咲は人の手ふたつぶんの距離を置いて長椅子に座っていた。時折、腰をかけ直す時に軋む椅子の音だけが僕達が同じ空間にいることを自覚させた。世界の静けさに比べ、僕の頭の中の世界はまるで散らかした教科書のようで何にも思考を働かせることが出来なかったから、床のシミを無心で数えていると、ぽつりぽつりと瓦の屋根を打つ雨音が響いた。その音で外が気になりちらと駅舎の外に目をやると寂れた世界の全体が霧のようになっていて、街灯だけが薄暮も沈んだ霧の世界を微かに照らしていた。
「霧雨だね」
寂れていた僕達の世界の中で、美咲が一番に沈黙を破った。この時僕は改めて思った。美咲の声が好きだ、笑った顔も怒った顔も好きだ。時折見せる髪をかきあける仕草も好きだ。美咲と入る時間が好きだ。――僕は。
だけど、そんな思いさえももう僕の口から紡ぐことは叶わない。だから僕はせめて返事くらいはと思って。
俯いたままではあったけれど「うん」とだけ返した。きっと今の僕にはこれくらいが十分なのだ。愛とか思いとか、そういったものを伝えるのがいかに身勝手でおこがましいことなのか今の僕はわかりすぎていた。
それだけで僕と美咲の会話は途切れ、ただひたすらに霧雨の降る音だけが耳を反芻するだけだった。僕はふとスマホを見るととあるニュースが目に入った。その内容は、高架下で会社員の男性が何者かに銃で発砲され殺害されたというものだった。また、この男は手に包丁を持っていたことから何者かと揉め合いになった末に殺害されたのではないかとも報道されていた。
これは、間違いなく僕が殺した男だった。
あの時の罪悪の念が再び押し寄せてきた。目の前の液晶に映る僕が犯人の事件。人を殺してしまったのだという実感と、もし僕が殺したことが世間に知れてしまえばこれから先の人生はどうなってしまうのかという押しつぶされそうな不安で吐きそうになったが、歯を噛み締めて吐気を喉の奥底へと押し殺した。
こんな僕に美咲を一瞥する資格もないことはわかっていたが、不意に今美咲はどんな顔をしているのだろうと気になって仕方がなかった。僕は重たく沈んだ顔を上げて美咲の方を向くと、彼女がじっと僕を見つめていた。――僕がずっと下を向いて床のシミとしか向き合わなかったから気が付かなった。
僕を見る美咲の面持ちは、僕には計り知れなかった。ほんの少しだけ眉をひそめて、僕を見ているのだけれどまるで違う何かを見ているかのように微かに横に流れる瞳、微かに開いた口元。この表情をどれかひとつだけ取ってみても、彼女の気持ちのひとつも汲み取れなかった。
「私達、どうなるんだろう」
微かに開いた口元から紡がれたその言葉は、か細くて、脆くて、今にも風に飛ばされてしまいそうなほど儚いものに感じた。僕の未来も美咲の未来も、これから先、もう同じ線路を進むことはないだろう。互いに隔たれた線路の上で永遠に交わることもなく、違う世界を見て進んでいく。でも彼女には未来に不安を抱いて欲しくはなかったから。
「きっと、美咲の未来は幸せだよ」とほんの少しだけ笑いながら言った。口にした後にして、自分はなんて身勝手なことを言ってしまったのだろうと思い少し後悔した。だけど美咲の進む未来が幸せであってほしいという僕の願いは紛れもなく、この心の中にあった。だが美咲は僕のその返答に不満を抱いたように僕から顔をそらし、目線を落とした。
もうどんな言葉を紡いでも詭弁にしか聞こえないだろう。愛も、憎しみも、僕の口先から、僕の心から生まれてくるありとあらゆる思いや願い。そのすべてが灰になっていく。もしもこの罪が世間や人の目に晒されることがなくとも、僕はこの罪の意識の十字架を永遠に背負い続けながら生きていかなくちゃならないと思うと、死にたくなった。でもここで死ぬのはやめよう。美咲に心配をかけてしまうから。
いや。本当に僕が悪いのか?
仕方なかったじゃないか。僕は美咲を守るために引き金を引いたのだ。それの何か悪い?
そうだ。元はといえばあの男が僕達に襲いかからなければ、拳銃さえ落としていなければ。
そうだ。あれは正当防衛だったんだよ。だから僕は悪くないんだ。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は――。
駄目だ。いくら誰かのせいにしようとしても結局は自分が惨めになるだけだった。罪を犯したのは僕だ。その意識に苛まれることには変わりない。悪いのは僕だ。
僕は惨めだ。結局は人を殺したという罪悪の意識から逃れることが出来ず暗くて底の見えない意識の海へと溺れていく。こんな僕なら――生まれてこなければ良かったのだ。
自分でも意識しないほど唐突に、今日一日の美咲との思い出が走馬灯のように過る。久しぶりに一緒に登校したこと、下校したこと。太陽に照らされた美咲が僕の見たどの美咲よりも眩しかったこと。ブランコに揺られて懐かしさを感じたこと。ラーメン屋で美咲が美味しそうに食べていたこと。ゲーセンで遊んだこと。プリクラで撮った写真も悪くないと思えたこと。陳腐な映画だったけど美咲はとても楽しんでいたこと。――そのどれもが掛け替えのない美咲との一日だった。だけど今の僕にはそれすら言う資格もない。
小さな駅舎の中、もう長いこと僕は美咲と言葉を交わしていなかった。僕も美咲もほとんどスマホはいじらずに何処か遠い所を眺めていた。美咲がどう思っていたかはわからないが、僕にはこの言葉のない空間がどうしようもなく怖かった。美咲は僕のことを見限ったのではないか、もしそうでなければどうして何も話そうとしないのだろうか。
美咲を横目でちらと見ると膝の上に置いた手を絡めてそれをずっと、そわそわと動かしていた。
その様子が見た僕は沈黙を破るための会話の口実になると思い「落ち着かない?」と言った。
ようやく深い海の底の様な沈黙を破り、僕は言葉を紡いだ。正直な所この一言を発するだけでもかなり息苦しく感じた。
落ち着いた声で「うん」と返事をしてくれた君の口元がほんの少しだけ微笑んだように見えた。「だって、親族のとこっていってもほとんど知らない人のとこに行くわけだよ? 正直、不安」この駅舎の中で君がこんなに積極的に話すのはこれが初めてだったから、僕は少し嬉しくなった。
「あ――。ごめん、話しすぎちゃった」申し訳なさそうに言葉尻を下げながら君は言って、顔を微かに俯かせた。
「別にいいよ」と今にも霧に埋もれそうなほど小さな声で僕は言ったから、彼女に聞こえていたかどうかさえ怪しかった。
それからまたしても、二人の間に沈黙が訪れた。長くて暗い言葉のない世界。ただ霧雨が屋根や地面を打つ雨声だけが二人の世界に響いていた。時折、外を見ても相も変わらず霧雨が世界を隠しているせいで世界の姿をはっきりと見ることは出来なかった。
僕の世界には君がいて、君の世界にも多分、僕がいた。だけどこの脆い世界は今日を持って終わる。終わりの時まで、ただ進む秒針の音を噛み締めるしかないのかと思うと僕の胸は張り裂けそうになった。このまま紡がれる言葉もないまま、美咲の顔を見ないまま、霧掛かった一夜に引き離されるのが怖かった。
だから僕は、霧の中に隠された夜闇を切り裂くように声を上げた。
「あのさ――」
「ねぇ――」
僕達の声が重なった一瞬の時間のみが、再び離れていた僕達の脆い世界を繋ぎ止めた気がした。僕達は少し気まずく、そして何だか照れくさくなってほんの一瞬、少しだけ目をそらした。目線をそらした後に再び僕達は互いの世界を繋ぎ合わせようとしてその目で互いの顔を見ようと目を上げた瞬間。――僕達の世界の終わりを告げるかのように電車のタイヤが止まって、線路に軋む音が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、停車した電車へと向かっていく。去り行く背中が少しずつ遠ざかれば遠ざかる程に僕達の世界は、冷たい季節に覆われて消えてしまう様な気がした。僕は、彼女の去り際の背中を眺めていた時初めて、五秒という時の、秒針では決して計ることのできない長さを知った。
別れへの時を急かすように、電車のドアが開いた。だが美咲は足を進めることもなく、もう電車はそこに来ているのにまるで何かを待っているかの様にそこに立っていた。僕は、急に目が覚めたみたいにして立ち上がり、急いで美咲の背中へと駆け寄った。――僕は、僕の世界から美咲を失いたくなかった。だけど勿論、僕にそれをいう資格なんてないのはわかっていた。けれど今ばかりは理屈を無視して感情が僕の足を進めていた。
美咲の背中が、あと少し手を伸ばせば触れられる距離にまで辿り着いた僕はとある言葉を口走ろうとしたが――やっとここまで来たのに、僕の中にある消えがたい理屈、殺人者であるという自責が喉元を潰した。
美咲の背中が少しずつ僕から離れていく。今を逃してしまえばもう永遠に掴むことのできない美咲のすべてが電車の中へと溶け込んでしまう。美咲はその足を二歩だけ踏み出して、鉄の床に脚を付けて、正に入口と出口の境目のような、それでも微かに車内と呼べる場所で彼女は止まった。僕がじっと美咲の背中を見ていると、美咲はゆっくりと僕の方へと振り向いた。美咲の制服のワイシャツは、肩と袖が少し濡れていて白い肌を微かに覗かせていた。彼女との時間も、これで終わりなのかと思うと僕は後悔に苛まれた。もっと二人の時間を共有することも、言葉を交すことも、もしかしたら触れ合うことだって、出来たもしれない。そう思うと僕は自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
僕が自らの世界で思慮に陥っていると、美咲はいつものように左手で髪をかきあげていた。だが唯一いつもの仕草と違っていたのは、右手が僕に向かって差し伸べられていたことだった。彼女と僕の世界における最後の数秒間、もしも僕がこの手を取れば僕達の残り時間は永遠という言葉でも計れないものになる。僕はずっと欲しかったのかもしれない。永遠よりも遠くて、刹那よりも深いものが。――だから、君の純白で汚れのない手を取ろうとして僕はこの手を伸ばした。
だけど僕の伸ばした手は、君の手を取れたはずの僅かな距離で止まってしまった。僕は気付いてしまったのだ、この本当に微かで今にも指の先が触れ合う様な距離には永遠に埋めることのできない溝があるのだと。それを知ってしまった僕に、君の汚れのない手を掴むことは出来なかった。僕は、本来なら彼女の手を掴んでいたはずの手を降ろした。――この瞬間、僕は悟った。もう二度と彼女と僕が出逢うことはないのだろうと。
僕達の別れを急かす様に電車の扉が閉まろうとしたその時、君は差し伸ばしていた手を、ぱたんと崩れ落ちるかのように降ろしたのを見て、僕の心は突き刺すような失意と哀情に酷く苛まれた。ドアが完全に閉まり切ると、電車は僕の心など置き去りにして遥か遠くの、僕の知らない世界へと美咲を連れて行ってしまった。その時の美咲は僕の方など見ようとはせずに、ただ閉まり切った扉の車窓の正面を、まるで意識が何処か遠くの世界に飛んで行ってしまったかのように、ぼうっと眺めていた。
結局、僕が取った行動は間違いだったのだろうか。こんな汚れた手でも、彼女の手を取るのが正解だったのだろうか。今となっては何もかもわからないまま、ただその日の答えだけがあやふやなまま毎日が過ぎて行った。
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