永禄11年(1568年)7月。
氏真が今川家臣によって隠居に追い込まれると、今川家13代当主には武田義信の息子が就いた。
これに対して、相模の北条氏政が待ったをかけた。
曰く、
『北条家は古くから今川とは親密な仲にあり、父氏康の正室も今川の者で、両家の交わりは深い。
それゆえ、新たな今川の当主には北条一門から出したい』
とのことだった。
北条家から届いた文を読み、飯富虎昌が嘆息した。
「既に当主交代を済ませたというのに、今さら口を出してくるとは……」
「ふはは! 北条の連中も、一足遅かったな!」
曽根虎盛が豪快に笑う。
「しかし、我らに今川を取り込まれたのは、北条にとって失態以外の何物でもないはず……。ともすれば、兵を送らぬとも限らぬぞ」
「まさか」
穴山信邦が息を呑んだ。
血を流さずに駿河を吸収したというのに、今度は北条と争うことになるのか。
重い空気が漂う中、雨宮家次が辺りを見回した。
「……して、若はいずこに?」
「長坂殿を連れて、何やら書状をしたためておったようですが……」
「無理もない。遠江に続き、駿河まで手中に収めたのだ。所領の安堵から検地まで、やることは山積みだ」
今川の当主には義信の息子が継いだとはいえ、義信は後見人にあたる。
すなわち、事実上、義信が今川を継いだに等しく、当然引き継ぎもなにもできていない。
そのため、武田家臣と今川家臣は膨大な政務に追われていた。
「しかし、北条と一触即発の今やらずとも……」
「うむ。いささか悠長ではないか?」
「なればこそよ……!」
曽根虎昌の言葉に、真田昌幸が異を唱えた。
「策略に秀でた若様のこと……駿河の統治を進めることで、なし崩し的に当主交代を認めさせるおつもりなのだろう」
なるほど、と家臣たちが頷く。
そんな中、小姓が息を切らして部屋に入ってきた。
「た、大変です! 北条が兵を連れてこちらへ向かってきているとのこと! ……その数、1万!」
「なんじゃと!?」
北条氏政率いる北条軍1万が、駿府を目指して行軍を開始した。
北条家としては、今川家臣の主君押込など、断じて認めることはできなかった。
武田、北条、今川で結んだ三国同盟とは、三家が娘を差し出し、それぞれ後継者と婚姻を結ぶことで、強固な繋がりを築くことだ。
氏政とて、氏真が今川家当主として力不足なのは百も承知だ。
しかし、だからといって家臣が主君を追い落とし、あろうことか武田義信の息子が今川を継ぐのを認めてしまえば、三国同盟の根本が崩れかねない。
「かような干渉を許しては、同盟もなにもあったものではないぞ……。運が悪ければ、当家とて武田に飲み込まれていたやもしれぬのだからな……」
顔を青くさせる氏政に、板部岡江雪斎が尋ねた。
「……では、幽閉されている今川様をお救いしたのちは、いかがなさるので?」
「これだけの大事になったのだ。元の鞘に納まる……というわけにもいくまい。……さしあたって、我が弟の氏規あたりを養子とし、今川を継がせるのがよかろう」
北条氏規は母が今川方で、なおかつ今川に人質として送られていたことがある人物だ。
今川を継がせるのなら、これ以上の適任はいないだろう。
「……はてさて、それでは武田の傀儡ではなく北条の傀儡になるだけのような……」
板部岡江雪斎がとぼけた様子で首を傾げると、氏政がニヤリと笑った。
「私は義信ほど汚い手を使っておらぬ。……それに、武田は遠江を獲ったのだ。ならば、我らが駿河を獲ったところで、罰は当たるまい」
北条軍が駿河に侵入すると、またたく間に河東を掌握して、駿府へ向かった。
対する武田家は駿河、遠江、三河から兵を集めた。
かくして、武田家率いる8000と、北条家率いる1万の軍が、富士川を挟んで静かに見合うのだった。
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