義元が桶狭間で討ち死にすると、今川家の屋台骨は大きく揺らぐこととなった。
跡を継いだ氏真では治められず三河にて徳川家康が離反。
また、敵味方の区別がつかず遠江でも混乱が広がっていた。
遠州忩劇と呼ばれるこの騒動により、遠江は今川派と反今川派に二分され、内乱状態が続いていた。
そこへ、三河を事実上領有した武田家が遠江まで食指を伸ばしたことで、今川との軋轢が深まり、三国同盟に大きな亀裂が入ろうとしていた。
これに対し、事態を重く見た北条家から調停が入った。
「三河、遠江の帰属を決めるゆえ、小田原まで参られたし、か」
文を読み上げ、義信がため息をつく。
「今川だけならまだしも、北条が入ると面倒だな……」
「されど、三国同盟は我ら三家の要……。破綻すれば、外交、軍事共に抜本的な見直しを余儀なくされますからな……。北条家が必死になるのもわかるというものかと……」
飯富虎昌の言い分はわかる。わかるのだが、やはり口出しされていい気はしない。
「……面倒だが、行くしかないか。小田原に……」
小田原城に到着すると、挨拶もそこそこに話し合いをする部屋に通された。
武田側からは義信、飯富虎昌、馬場信春が。
今川側からは氏真、寿桂尼、岡部元信がそれぞれ席に着く。
武田と今川、双方の代表者が向き合う中、北条家の僧侶が席についた。
「それがし、北条家の板部岡江雪斎と申します。この場はそれがしが取り仕切らせて頂きますゆえ、ご理解頂きたい」
板部岡江雪斎が頭を下げる。
生臭さ坊主と聞いていたが、こうしたことには慣れているらしい。そうそうたる面子を前に、臆する気配がまるでない。
話を切り出そうとする板部岡江雪斎をよそに、義信が集まった面々を見回した。
「それで、此度はいかような話し合いかな? 三河復興の支援をしてくれるというのなら、喜んで話を聞くが……」
今川、北条方から冷ややかな視線が刺さる。
板部岡江雪斎が続けた。
「若君には即刻三河を明け渡して頂きたい。かの地は今川の領地にて、我ら北条家も認めるところ……。若君とて、知らないわけではありますまい」
「断る」
「なっ……!」
氏真をはじめ、今川家の面々が絶句した。
「元を正せば、三河を治めていたのは松平だったはず……。義元公がご存命の頃は今川領であったが、義元公の死を機に今川の軛から解き放たれ、松平元康……徳川家康が治めるに至った。それを武田が滅し、三河の主が武田に移っただけのこと……。今川に返す謂れがどこにある」
義信が毅然と述べると、寿桂尼が反論した。
「当家が三河を治めたのは、三国同盟を結ぶ前のこと……。であれば、盟約を結ぶ時点で、武田家も当家の三河領有を認めていたはず……。それが、義元公が亡くなった途端に手のひらを返して三河を奪うとは……盗人猛々しいとはこのことでしょう」
「三河が今川のものであると言うが、それならなぜ反旗を翻した徳川家康を討伐せず野放しにしていたのだ。……己の領地で不始末があったのなら、己でカタをつけるというのが筋というもの……。それもできぬようでは、三河の主を名乗る資格も怪しかろう」
「義元公が討ち死にあそばされて8年余り……その間、よもや遊んでいたわけではありますまい」
飯富虎昌と馬場信春が氏真を睨みつけると、心当たりがあるのか氏真の顔が赤く染まった。
(いやはや……今川様は無類の蹴鞠好きとは聞いていたが……)
(本当に遊んでいたのだな……)
嘆息する飯富虎昌と馬場信春をよそに、義信が続けた。
「徳川家康が独立して8年余り。今川家が徳川討伐の軍すら興さぬのなら、三河は放棄したも同義……違いますかな?」
義信の話を聞いて、板部岡江雪斎が頷いた。
「なるほど。武田殿の言い分、よくわかり申した。しかし、遠江に調略をかけ、今川からの離反を促していると聞きます。……これはどういった了見でしょうか?
「同じことを言わせるな。義元公が討ち死にあそばされて8年余り……。その間、三河を平定するどころか、混乱する遠江も治められぬ有様ではないか。
隣国を治めるものとして、この混乱が三河、信濃と波及しては事であろう。……それゆえ、今川殿に代わり遠江の平定を買って出ているまでのこと」
義信の苦しい言い分に、板部岡江雪斎が苦笑いを浮かべた。
「なるほどなるほど……。それでは、三河は武田殿が治める代わりに、今後一切遠江には干渉しない。……ということでいかがかな?」
実効支配された三河は武田に渡し、混乱する遠江は武田の影響力を排除して今川が治める。
話し合いとしては妥当な着地点と言えた。
寿桂尼が促すと、氏真が頷いた。
「…………わかった」
氏真が頷いたことで、話し合いの成否は義信に委ねられた。
皆の視線が義信に集まる中、義信が声を張り上げた。
「断る」
「なっ……」
言葉を失う氏真に、義信がまくし立てた。
「遠江の国衆は今川の軛から抜け出すことを望んでいた。これを見過ごしては、遠江が戦禍に巻き込まれることになろう。
それに、奴らは私を頼ってきた連中だ。それを見捨てては、名門甲斐源氏武田の名が廃るというもの……」
「何を言うかと思えばっ……当家が三河を譲ったのだから、そちらが遠江を譲るのが筋であろう!」
「譲るもなにも、元より三河を治められなかっただろう」
「なっ……言わせておけばっ……!」
氏真が義信に掴みかかろうとすると、岡部元信が止めに入った。
こんな状態で話し合いが続けられるはずもなく、この日の交渉は決裂という形で幕を下ろすのだった。
戦をせずに謀略で、それも誰が見ても妥当な経緯で国盗りを成し遂げるのって難しいですね。
こうして見ると、斎藤道三や宇喜多直家ってスゴかったんだなぁと思い知らされます。
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