俺がアンブロースの身体から流れる血を、しきりにぺろぺろと舐め取っていると。
ざ、と土を踏む音がいくつもした。同時に、俺へと呼びかける声がある。
「ジュリオ……?」
「ジュリオさん……」
「あ……」
声のした方にいたのは、リーアとジャコモ、ルドヴィカにフランコにジョズエに……以下、本作戦に参加した冒険者の面々だ。
いずれも、アンブロースとの会敵位置から大きく距離を取っていたから、怪我をした様子はない。多少、舞い上がった土を被ったにおいがするけれど。
「リーア、ジャコモさん……それに、皆も」
「まさか……ジュリオ君か?」
顔を上げ、彼女らの方に顔を向けて呼びかけると、ルドヴィカが信じられないと言わんばかりの表情でこちらに声をかけてきた。
その後ろではフランコとジョズエが、驚愕と恐怖が入り混じった目つきをして、言葉を零している。
「フェンリルだ……」
「嘘だろ……これがジュリオなのか……?」
二人はすっかり恐れおののいている。彼らの後ろにいる冒険者たちも同様だ。むしろ、驚きながらも恐れていないルドヴィカの胆力が、凄いのかもしれない。
その反応に少しだけ寂しいものを感じながら、俺は彼らの方に歩み寄って、頭を垂れつつ口を開いた。
「ん、と、その、信じられないかもしれないけれど……事実だ。俺はもう、人間じゃない」
もう人間ではない。ウルフで、フェンリル。こうなった以上、俺は俺自身を、そう説明するしかない。
俺の発した言葉に、冒険者たちが揃って息を呑んだ。喉の奥から引き攣ったような音も聞こえる。
その反応に、目をぱちくりさせる俺だ。ここまで驚かれると、逆に困る。
「……え、えーと」
「ねージュリオ」
と、困惑混じりに言葉を重ねようとしたところで、リーアが俺の言葉を遮った。
軽い足取りで前に出て、俺の首筋を優しく撫でながら、それを告げる。
「多分、皆、ジュリオが何言ってるか分からないと思うよ?」
「へ?」
その言葉に、俺は改めて目を見開いた。
俺は普段通りに話していたつもりなのに、通じていないとは、どういうことだろう。
疑問符が頭を埋め尽くす俺に、ジャコモがゆるゆると頭を振りながら口を開いた。
「魔狼転身のデメリットの一つだよ。ジュリオさんは今、魔獣語で話している……しばらくは、人間語は話せない」
「え……じゃ、皆とどうコミュニケーション取ればいいんですか」
その言葉に、俺はハッとした。
よくよく考えれば、ウルフである以上、魔獣語が第一言語になるのは当然だ。ジャコモやアンブロースが魔獣の姿のままで、平気な顔して人間語を操っているから、あまり意識していなかったけれど。
しかし、だとすると他の冒険者、ひいてはギルド職員と話をするのがとても不便だ。魔獣語のスキルを保有している人間が、そんなたくさんいるとも思えない。
ジャコモも苦笑交じりに、俺へと言葉をかけた。
「その間は、人間語と魔獣語が両方話せるリーアに、間に入ってもらうしかないな。魔狼形態は俺達ウルフの魔獣的な側面を、より一層強めた状態だ。仕方がない」
「そんな……」
ジャコモの容赦ない言葉に、俺は耳と尻尾をしゅんと下げた。
ウルフになって人間に戻れない、くらいのデメリットは予想していたけれど、人間語が喋れなくなるとは予想外だ。リーアが通訳してくれるのは助かるが、彼女の負担が増えるのは申し訳ない。
うなだれる俺に、ルドヴィカが恐る恐る声をかけてくる。
「ジュリオ君、その……我々の話していることは、理解できるのか?」
「ああ……それは大丈夫だ」
彼女の言葉に、僅かに頭を上下させつつ肯定を返す。言葉として伝わっていなくても、自分の意思表示はちゃんとしておきたい。
俺の言葉を聞き取ったリーアが、尻尾を振りながらにっこり笑う。
「うん、人間語を聞き取って理解することは、ちゃんと出来るって。皆は普通に話していいよ」
その言葉に、ほっと安堵の息を吐き出すルドヴィカだが、未だに目の前の現象が信じきれないでいるらしい。ジャコモに視線を向けながら、額を押さえた。
「ジャコモ、彼に……一体何が起こったというのだ。強烈な魔力が膨れ上がったと思ったら、森が……こんなことに……」
そう言いながら彼女が目を向けるのは、数十分前まで木々が生い茂っていたこの森だ。いや、もう森とは呼べないだろう、領域の半分以上、中央部分からすっかり木々が無くなり、地面が焼け焦げて荒れ果てた状態なのだから。
その悲惨な状況と、その中で未だ倒れ伏したままのアンブロースを見やりながら、ジャコモが答える。
「ジュリオさんは、フェンリルとしての能力を全て解放したんだ。今まではヒトの肉体という枷に縛られていたけど、肉体をウルフ……フェンリルに変化させることでそれを解き放ったってわけだ。さっきの魔力の爆発も、最大限の能力を発揮したジュリオさんと、アンブロースの激突で起こったものだ」
そう話しながら、ジャコモが俺の方に歩み寄ってくる。俺の毛皮に顔をすり寄せ、顔をひと舐め。くすぐったいが、悪い気はしない。
気持ちよくてふさふさと尻尾を揺らす俺に、モレノが不安そうな声を発した。
「か、彼は……も、元に、戻れるのかい?」
「そ、そうですよジャコモさん、このままじゃ、町にも入れない」
その隣でロージーも、心配を露わにしながら口を開いた。
確かに、二人の言うとおりだ。このままずっとウルフのまま、となったりしたら、冒険者としての活動にいろいろと支障をきたす。そもそもの話、今回の依頼の報告のためにギルドに行くことすらできない。
というかまず、俺の服やベルトは大丈夫だろうか、せっかく手に入れたディアマンタイト製の冒険者タグを、紛失していたら悲しすぎる。
彼らの言葉を聞いたジャコモが、またも口角を持ち上げながら口を開く。
「解放した力が落ち着きを取り戻したら、大丈夫だよ。二日くらいはかかるけどな。それに、人化転身はこの状態でも使えるから、ヒト程度の肉体にはなれる……そこにも、一つデメリットはあるけれど」
「あ、そうか……と、とにかくこのままじゃ色々まずい。人化転身!」
彼の発した言葉にハッとした俺は、すぐに人化転身を発動させた。
元々人間寄りの身体をしていた俺が、人間寄りの身体になる人化転身を使うというのも変な話だが、今の俺のことを考えると仕方がない。なにせフェンリルなのだから。
スキルの発動によって、俺の身体の骨格と構造が組み変わる。人間の時と同じ高さに目線が下がり、二本足で地面を踏む感覚を取り戻した――のだが。
「……えっ」
「なっ……!」
困惑の声があちこちから上がる。同時に俺も魔獣語で素っ頓狂な声を上げた。
何しろ、視界の下側に狼の口吻がまだあるのだ。鼻も黒く光っている。視線を下に落とせば、首元も足も茶色のもふもふした獣毛に覆われていた。
リーアが、頬を両手で挟みながら嬉しそうな声を上げる。
「うわー、ジュリオ、すっごくもっふもふ!」
「獣人じゃないですか、この身体!?」
そう、俺は人間にも、ましてや狼人にすらも戻れなかった。
獣人、獣の頭部と全身に生える獣毛、尻尾を持つ、魔獣種のモンスターになっていたのだ。
服はどういう仕組みか、ちゃんと身につけている。ベルトを確認したらタグも見つかった。魔法的に分解され、再構成されたのかもしれない。
俺が自分の服がちゃんとあることを確認していると、ざ、と背後で土を踏む音がした。
「……それが、魔狼転身のもう一つのデメリットだ、盟友よ」
そこには、見上げるほどに大きな体格のサンダービーストが立っていた。アンブロースだ。
「アンブロース……もう、起き上がって大丈夫なのか?」
「問題ない。この程度、自然回復で何とでもなる」
もう起き上がれるまでになったことに俺が驚愕すると、アンブロースは自分の身体についた傷をぺろりと舐めた。
全身に刻まれた切り傷は、そのほとんどが既に塞がっている。血が流れて、足元がふらついている様子もない。恐るべき回復力だ。
その彼が、右目に刻まれた三本の切り傷に加え、口吻に一文字に傷が走る顔を、俺にそっと寄せてくる。
「貴様は先程、ヒトの器を捨て去り完全なウルフとなった。その解放した力が再びヒトの殻の大きさに収まるまでは、ヒトの姿に戻ることは叶わない……人化転身を経て形をヒトのそれに変えようとも、獣人が限度というわけだ」
そう話しながら、彼の舌がちろりと俺の鼻を舐めた。その舌先には先程までの荒々しい感情ではない、尊敬と親愛が感じられる。
そうして、俺の目をまっすぐに見つめながら、彼は言った。
「盟友よ。私は先程の貴様との本気の激突で知った。貴様がどれほどヒトとして優しく、魔物として思慮深いのか。それでこそ、我が盟友に相応しい」
「え……それじゃ」
発せられたその言葉に、俺は目を見張る。
確かに俺達は、彼と従魔契約を結ぶべくこの森にやって来たけれど、まだその話は出していないはずだ。そんなまさか。
驚愕する俺へと、アンブロースがこくりとうなずいた。
「私は貴様の傘下に下ろう。契約が必要なら結ぶがいい。従ってやる」
「な……」
彼が発したその言葉に、冒険者たちが大きくどよめいた。ルドヴィカなどは信じられないものを次々見せられ、あごが外れそうになっている。
ちらりと後方に視線を向けて、俺は自ら申し出てきた彼へと言葉をかける。
「いいんだな」
「無論。貴様となら、いい旅が出来そうだ」
俺の言葉に、もう一度うなずくアンブロース。意志は固いようだ。
ならば、拒否する理由はない。俺は彼の喉元に、毛むくじゃらな手のひらを向ける。
「主たる我、汝と永久の契約をここに結ぶ……我が命尽きるその時まで、我は汝の友、汝は我の友……いざや我ら、共に遥かなる旅路を歩まん!!」
従魔契約、本契約の詠唱文句が発せられ、アンブロースの首に俺の手から伸びた魔力が巻き付く。
そして彼の山吹色の毛が生えた首に、従魔を示す契約印が刻まれていた。
「……ふむ、従魔になるとは、こういう感覚なのか。得難いものだ」
「ああ……これからよろしくな、アンブロース」
自分の首を爪先で軽く触るアンブロースに、俺はそっと手を添える。
そうして優しく彼の毛皮を撫でる俺の背中に、冒険者たちの驚愕する声が飛んだ。
「嘘だろ……」
「『雷獣王』アンブロースが、冒険者と従魔契約を結ぶだなんて……」
神獣が。『雷獣王』が。
同じ神獣であるとはいえ、冒険者と従魔契約した。
とてつもないことだ。どんな冒険者も、羨望するより恐怖するだろう。
ざわつき始める冒険者の中で、ルドヴィカは腕組みをしながら、うっすらと笑っていた。
「ふっ……やはり、規格外なのだな、彼は」
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