土を蹴上げて、足跡を残して。
熊と呼ぶにはかなり大きい、黒みがかった赤毛を身にまとった熊が、口の端からヨダレを垂らし、目をらんらんと輝かせて、山の斜面を下っている。
「ゴォォォォォ!!」
「ガフッ、ガフッ」
その息遣いも、俺の耳には確かに聞こえていた。今いる場所から100メートルは離れているというのに、だ。
こちらに向かって一直線に走ってくる、ブラッドグリズリーどもを正面に見据えて構えを取りながら、俺は小さく言葉を漏らす。
「ブラッドグリズリー……山の麓付近にいるのは、今日の昼間に俺たちがあらかた片付けたのに」
「上の方から降りてきたのかもしれないね」
リーアもまっすぐ前方を見据えた。その拳をゆるく握るが、飛び出そうとはしていない。
何故なら、その表情はとても明るいものだったからだ。
「大丈夫、今のジュリオなら一捻りだよ! 頑張って!」
「ええ……まあ、あのステータスなら、可能だろうけどさ……」
そして、満面の笑みで発する言葉に、肩を落とす俺だ。リーアもリーアで、俺に任せる気マンマンである。
しかしそれに愚痴を言ってもいられない。もうブラッドグリズリーとの距離は30メートルもない。もうあと数歩で、彼らの爪は俺に届く。
そうなったら仕舞いだ。俺も、リーアも、この町も。後方からイレネオたちが走ってくる音が聞こえるが、それを待ってはいられない。
「ええい、なるようになる!」
意を決した俺は拳を握る。
そして一気に地面を蹴り、真ん中のブラッドグリズリーに向かって距離を詰める。
そこから、一息に右手を前に突き出した。
「はっ!」
「ゴ――!?」
俺のもふもふした丸っこい右手が、体重を乗せてブラッドグリズリーの顔面に叩き込まれる。
と。
肉を割き、骨を砕く感触が手に伝わると共に、相手の顔面が消し飛んだ。
否、顔面だけではない。胸から下も、あばらを超えて腹までも。血しぶきを上げながら、文字通り粉々になって飛び散った。
ああ、やはりか。何しろ攻撃力二万弱。このくらいの破壊力を起こしたって、全く違和感は覚えない。腹に打ち込んでいたら、もしかしたら全身が吹き飛んでいたかもしれない。
「うそ……マジかよ」
「ブラッドグリズリーの、身体の半分が、消し飛んだ……」
後方で、「地を這う熊」の面々が愕然とする声が聞こえる。当然だ、目の前でこんなものを見せられたら、絶望したくもなる。
イレネオもこの威力は想定外だったようで、目を見開きながら声を漏らした。
「凄まじいな……リーアちゃんの力と、ルチアーノの旦那の力が合わさると、ああもなるのか」
「ね? ジュリオはやっぱり最強でしょ?」
いつの間にかイレネオの隣に立っていたリーアが、自信に満ちた表情で笑った。
おいおい、やっぱりってどういうことだ、とツッコミたい気分だったが、そんなことをしている余裕はない。俺の目の前には二頭のブラッドグリズリー。しかもリーアやイレネオはその向こう側だ。
普段なら挟み撃ちと言う喜ばしい状況だが、あまり向こう側からの援護は、期待できそうにない。
「グルッ……!?」
「ゴガガ……」
しかし仲間が一撃で吹っ飛ばされたことに、相手も困惑している様子。それに加えて俺の「魔狼王の威厳」が効果を発揮しているらしい。
じっとこちらを見つめてくるブラッドグリズリーに、俺は魔獣語で呼びかけた。
「お前たち、オルニの町に入ろうとするなら、俺は容赦しないぞ。死にたくなければ、山に帰れ」
俺の声が届いたのか、相手が一瞬だけ身を強張らせる。少しだけ顔を動かして互いに顔を見合わせ、しばし。
数秒の間をおいて、二頭ともがうやうやしく頭を下げてきた。
「王の命令と言えど、こればかりは抑えられません」
「人を食らって生きるのが我々の道。申し訳ありません、王よ」
その言葉に、俺は目を見張った。王として呼びかけられたこともそうだが、その返答の内容に驚いたのだ。
ブラッドグリズリーは人を襲って食らう魔獣。それ故に従魔契約を結ぶことは出来ない、出来たとしても御しきれないと言われる。
その性質は、魔狼王の権威を以てしてもどうにもならないらしい。
俺はゆるゆると頭を振った。どうせなら山に追い返して済ませたかったが、きっと彼らは追い返したとて、また山を下りて人を襲いに来るだろう。
「そうか、それなら仕方がないな」
魔獣語で短く返し、俺は大きく跳び上がった。
一頭ずつ殴り飛ばして倒してもよかったが、それでは力を試すことにはならないし、面倒だ。どうせならフェンリルの扱える魔法の力も試したい。
跳び上がり、空中で身をひるがえす。そこから俺は両手に風の魔力を集めて、大きく振り下ろした。
「その刃、何人も止めること能わず! 風刃!」
魔法の詠唱文句を唱えた後だ。俺の目の前に、まるで公開処刑の首狩り刃のような巨大な刃が、眼下のブラッドグリズリーめがけて飛んでいった。
おかしい。俺の使ったのは風魔法第二位階の風刃。風魔法の中では初歩も初歩だ。ベニアミンでさえも、この魔法で生じさせる刃は剣閃程度の規模、魔物一頭にぶつけるのがせいぜいなのに。
疑問に思う暇もなく、風の刃がブラッドグリズリーの胴体を、二頭まとめて寸断する。どころか、その下の地面も深くえぐって消えていった。
「わっ……!?」
「……おいおい、マジかよ」
「風魔法第二位階の風刃で、あの大きさに、あの威力だと……!?」
イレネオも彼の仲間達も、あまりの威力と規模の大きさに絶句している。
これはもう、初級魔法じゃない。立派に上級魔法レベルの威力と規模だ。
そして俺は感じ取った。MPがほとんど減っていない。元々絶大なMPを持っていたが、減ったのはせいぜい2か3だ。その減少分も、俺が地面に降り立つ頃には既に回復を終えている。
消費MPの軽減は「魔王の血脈(獣)」の影響だと話に聞いている。だとしてもこれは、確かにとんでもない効果だ。
「これは……予想はしていたけど、とんでもないな」
「どう、フェンリルの力の凄さ、感じられた?」
血にまみれた自分の右手を見つめる俺に、リーアが尻尾を振りながら声をかけてくる。
その後ろからはイレネオ以下、「地を這う熊」の面々が満面の笑みでこちらに近づいてきていた。こんな絶大な力を見せた相手だ、それも既知の相手である。嬉しくなるのも当然だろう。
「ああ……感じたよ、嫌ってほどに」
歓声と賞賛を受けながら、俺は右手を優しく撫でる。スキル「着ぐるみ洗浄」の効果で、血の汚れは綺麗さっぱりなくなっていった。
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