イェ=ムーの物語

南部鞍人
南部鞍人

《成長》と《時》の物語

公開日時: 2022年6月13日(月) 23:27
文字数:1,179

 《成長》と《時》の物語



 《成長》は、《誕生》を兄として姉として、《死》を弟として妹として、そのはざまに名を連ねる三柱の神の次弟であり次姉である。


 《時》はイェ=ムーの万象たる神々の中でもっとも生真面目な神として知られ、また原初の《五柱の大神》よりほかにその縁起を知るもののない、最古の神である。


 《成長》と《時》はイェ=ムーに住まう命あるものと、命なきものの、すべての肉体の盛衰である。《成長》はイェ=ムーに住まうすべてのものに衣を授ける仕立屋であり、《時》はイェ=ムーに住まうすべてのものの衣をほどく糸紡ぎである。


 《誕生》の祝福によって生まれ出でし命あるものと命なきものが、いかにして《視るもの》イーサーの巡りとともに大きくなるかと言えば、それは《成長》が《時》の紡いだ糸をもって数多の衣を編み、そのものに重ね着せてゆくがためである。

 この業をもって、かの神の祝福となし、イェ=ムーに住まうべてのものは、マ・ガンの大河が流れに従って支流を抱き込むがごとく、イーサーの巡りとともにその体躯を大きくしてゆくのである。

 しかしながら《成長》は気まぐれな神であり、ひとたび、そのものの衣をあつらえるに飽けば、ふたたび祝福を与えることは稀である。


 《成長》が衣をあつらえるに飽けば、今度は《時》が《成長》に替わって、そのものに重ねられた衣を解き、新たな衣のための糸として紡ぎ取ってゆく。

 《成長》の編んだ衣によって大きくなった命あるものと命なきものが、いかにして《視るもの》イーサーの巡りとともに小さくなるかと言えば、それは《時》が《成長》のあつらえた衣をほどいて巻き取り、新たな衣のための糸に帰するがためである。

 この業をもってイェ=ムーに住まうすべてのものは、孤独な薪の火が縮んでゆくかのごとく、イーサーの巡りとともにその体躯を削られてゆくのである。


 また、縮んだ火がやがてイェ=ムーの大地より消え去るように、《時》の糸車は、そのものに《死》の祝福が下りたのちもなお回り続け、終にはイェ=ムーの大地より、そのものの肉体を消し去るのである。


 かくとごとき糸と衣の巡りをもって、「《成長》と《時》は番である」と見なす趣は、地上の賢者諸氏のなかにも、またイェ=ムーの神々のなかにも数多あれど、真実は定かではない。


 なぜならば、《時》はイェ=ムーの神々の一柱にあって、万象たる神々にすらその貌を拝することの叶わぬ不可知の神だからである。

 かの神は夜よりも暗き帳の内に籠もりて糸を紡ぎ続ける。帳の外から語りかけようとも、内より聞こえ来るのは糸車の回る音だけである。

 《時》の許しなく幕を上げれば、たとえ神々であろうともその衣をほどかれ、《死》の祝福を得ずしてイェ=ムーより消え去ることとなる。

 《時》の天幕の内に入り、かの神の貌を識り、かの神の聲を聴き、かの神と睦めるものは、ただ《成長》だけである。


読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート