次の日、午前中の修練は休みだった。そこで華婉は出かける準備をする。
肩よりやや長い程度の黒髪をうなじのあたりで括る。その日の気分によって、もっと上のほうで括ったりもする。
周渓の腰以上もある長髪に憧れているものの、さすがにあそこまで伸ばしたら手入れが大変だし、戦いのとき邪魔になる。周渓の場合、それをまったく感じさせない。それだけ動きに無駄がないというわけだろう。
着物を着替え、練習用の木剣を腰に差した。
「あれ、婉姐。どこか出かけるの?」
宿舎の外に出たところで恬珂に声をかけられた。周渓と悠輝の姿は見当たらない。
「ああ、いつもの出稽古だ。恬珂、おまえも来るか?」
「うん。周姐さまと霍姐が城市に行ってるから暇だったんだ。ちょっと待ってて、すぐ用意するから」
時折、華婉は〈鉸龍〉まで「出稽古」と称して出かけるときがある。〈桃花〉では華婉の相手になる者が限られているからだ。〈鉸龍〉ならばそれなりに手強い相手がいる。
そんな華婉についていくのは決まって恬珂だった。恬珂の目的は〈鉸龍〉にいる兄の洪永に会うためである。
月に二、三度ほど〈鉸龍〉と〈桃花〉で合同の修練が行われるものの、還界派では男女間についての規律が厳しい。
禁じられてこそいないが、掌門や師範代以外の者が〈鉸龍〉と〈桃花〉を行き来するのは好ましく思われていなかった。
師範代の李慧にも何度か注意されていた。だれそれをおとなしく聞くはずがない。別に悪いことをしているわけではないからだ。
還界山は大小二つの山が尾根で結ばれている。無論、大きい山のほうが〈鉸龍〉。小さい山のほうが〈桃花〉の修練場である。
山間を吹き抜けていく風が強い。それに煽られるようにゆるい傾斜の山道を華婉と恬珂は歩く。
長い石段が現れた。これを登りきると〈鉸龍〉の門が見える。
武骨な造りの巨大な門。頂に還界派と書かれた扁額。柱のほうには〈鉸龍〉と刻まれている。
門の両側に一人づつ門番がいた。華婉と恬珂に気づくと包拳の礼で迎え、門を開ける。
中へ入るとまず〈桃花〉とは比べ物にならないほど大きな修練場。中央の広場には濃紺色の着物を着た百人ほどの門弟が棒を振っていた。
端のほうではさまざまな修練用の器具を用いて門弟たちが汗を流している。筋力をつけるものや瞬発力をつけるもの。平衡感覚を養うものもあれば、動体視力を鍛えるものまである。これらの器具はやはり〈桃花〉ではお目にかかれない。
「さて、今日はどいつを相手にするか」
一人一人強そうな相手がいないかじっくりと観察する。しかし、誰も華婉と目を合わせようとはしなかった。これは華婉が龍花で優勝してからの反応だ。
それ以前は男たちのほうから、おれもおれもと試合を申し込んできたものだった。いまでは華婉のほうから声をかけてもなかなか試合に応じてくれない。
「やっぱり婉姐を避けてるね。龍花で強いところを見せつけすぎたからだよ。もう試合してくれるのは、美人の婉姐をものにしたいってやつぐらいかな」
恬珂が下から顔をのぞき込みながらにやけている。
美人、美人とよく言われるが、華婉にはそれがよくわからなかった。他人のことなら、なんとなくわかる。
周渓の繊細な顔立ち、白い肌、流れるような黒髪。すべてが女らしくて綺麗だと思う。悠輝の引き締まったしなやかな肢体も魅力的だし、恬珂はそれこそ子猫のような可愛らしさがある。
(自分は――女にしては声が低いし、目つきも鋭い。話し方や所作も綺麗ではないし、可愛げもない)
「わたしは……美人なんかじゃない」
それが口癖だった。そんなことないよ、と恬珂が指さす。その先には華婉の天敵というべき大柄な男が、いやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。
「か、華婉。今日も試合の相手をさがしにきたのか。へへ、いつ見てもいい女だな。お、お、おれが相手になってやるよ。ほら、こっちこいよ」
高綜覇。掌門の元真には三人の息子がいるが、この男は末の息子である。
華婉が〈鉸龍〉に来るたびに試合の相手と名乗り出るが、何かにつけて身体に触ろうとする。怒った華婉が木剣がへし折れるほど打ちのめすが、異常に打たれ強いこの男はけろりとしていた。
「おまえは打たれ強いだけでわたしの相手にはならない。他をさがすから、あっち行ってろ」
「そ、そんなこと言うなよ。おれはな、おまえと一緒に居たいんだ。わかるだろ? 頼むよ」
「それ以上近づくな。こいつで目玉を抉るぞ」
腰の木剣を抜きざま、目の前に突きつける。華婉の表情を見て、それが本気だとわかった綜覇はあたふたと去っていった。
「あらら。せっかく婉姐のことを一番、美人、美人って言う人が来たのに」
逃げ去る綜覇の後姿を見ながら恬珂がけらけらと笑った。
「冗談じゃない。仕方がないな、恬珂。おまえの兄貴をさがしてこい」
「いいけど。もう逃げちゃったんじゃないかな。婉姐がいじめるから」
「人聞きの悪いことを言うな。別にいじめてなんかいない」
恬珂と洪永は華婉と同じ村の出身。還界派に入る前から幼なじみとして親しかった。
洪永の武芸の腕は、はっきりいって恬珂よりも下だった。素質というよりも、その温厚な性格のせいだと思う。年下の門弟からも陰ではばかにされているようだ。華婉にはそれが許せない。
「わたしが稽古をつけてやるんだ。あいつを鍛えてやる」
試合の相手が見つからないときは洪永に稽古をつけてやる。本人はとても嫌がっているが。とにかく木剣で足を払って転ばしたり、小突きまわしたりするとなんだか面白い。
その洪永を見つけた。宿舎隅の庭園。しゃがみこんで何かの苗を植えているようだ。
「洪永。そんな暇があったら剣の腕でも磨いたらどうだ」
声をかけると頼りげのない背中がびくっと震え、恐々と振り向く。
「か、華婉か。驚いたな。恬珂も一緒か」
「兄さん、婉姐が稽古をつけてあげるって」
それを聞いて洪永が怯えたような表情を見せる。
「かんべんしてくれ。おれは別に強くならなくてもいいんだ」
再び背を向けて土いじりをはじめる。いつものことだが先ほど綜覇にからまれたこともあり、華婉はいらだった。
「だったらここにいる意味がない。強くなろうとする人間だけがここにいるんだ」
「わかってる。だけど、向いてないんだ」
かっとして華婉は襟首をつかんで無理やり引き起こす。頬を平手で打とうとしたが、恬珂が見ているのでやめた。
「馬賊に村を滅ぼされ、親がいないわたしたちを拾ってくれたのが還界派だ。わたしたちには強くなる義務がある。強くなって、馬賊たちと戦わなくてはならないんだ」
揺さぶりながら睨みつけると、洪永はためらいながらも頷く。
「わ、わかったよ。稽古するよ。だけど、あまり激しいのはやめてくれよ」
華婉と洪永が木剣を持って対峙する。
華婉は動かない。しかし、いつでも打ち込むような気を放つ。対する洪永は木剣を持つ手は震え、腰は完全に引けている。華婉は怒る以前に呆れた。
一歩、華婉が踏み込む。洪永がひっ、と小さな悲鳴をあげた。構わずもう一歩踏み込んだ。洪永がまた悲鳴をあげ、木剣を突き出す。話にならないほど貧弱な突き。
叩き落す。ぎゃっと叫んで洪永はうずくまった。その肩を足ですくい上げ、上体を無理に起こした。
「洪永、何年修練を積んでいるんだ! そんなことじゃ、馬賊たちとの戦いで死んでしまうぞ!」
首筋に軽く木剣を打ち下ろす。ぐるりと白目を剥いて洪永は倒れた。
「婉姐、ちょっとやりすぎじゃないかな」
恬珂が心配そうに駆け寄り、洪永の背中を押した。洪永が呻きながら意識を取り戻す。
「これぐらい……なんだっていうんだ。厳しい修行で死ぬ者だっている」
そうは言ったものの、自分でも少しやりすぎたと思った。だがこの青年には強くなって欲しいのだ。
「……もう、帰る」
華婉は背を向けた。なんだか泣きそうになった。
もっと普通に話したりしたい。なのに、つい剣で打ちのめしたり、きついことを言ってしまう。
弱々しい声で洪永が呼び止めた。華婉が振り返ると、その手に何かを押し込んできた。
「……これは?」
華婉がゆっくり手を広げると、そこには蝶の形をした銀製の髪飾りがあった。
「還界派に入って、ちょうど十年目だろう? その記念みたいなものだ。銀には魔除けの力が。蝶は幸運を呼び込むって話だ」
「だけど、こんな高価なもの」
「いいんだ。いつも妹が世話になっていることだし」
「あ、ありがとう」
華婉はどういう反応をしていいかわからず、真っ赤になってうつむく。男から贈り物をもらうなど、はじめてのことだった。
「うわあ、いいなあ。ねえ婉姐。つけてみてよ」
「え、いまか?」
「そうだよ。わたしがつけてあげる」
恬珂がはしゃぎながら髪飾りを受け取って、華婉の後ろに回り込む。
括った髪の結び目の上に髪飾りが挿された。恬珂は溜息をつき、洪永は目を細める。
「うん。とっても似合うよ。なんか雰囲気が和らいだって感じ」
「よかった。すごく綺麗だ」
綺麗とは自分のことか、髪飾りのことか。華婉は耳まで赤くなる。
「ああー、いいなあ。婉姐だけずるい。ねえ、わたしには? わたしも十年目だよ」
「おまえはまた今度な。華婉みたいに強くなったらあげるよ」
「ええ~、そんなの無理だよ。兄さんのいじわるっ」
恬珂が頬をふくらませて地団駄を踏む。洪永が笑い、華婉も照れ隠しに笑った。
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