恬珂が働いている店は、同じ台恵の城市の中にある。
魯進の話によると、使いの用事を頼まれた恬珂がこっそりと宿の様子を見に来ていたそうだ。華婉はちょうどそのとき、仕事で城市を離れていたときだった。
衣料品を売っている大きな店だった。反物も扱っており、注文に応じて仕立てもおこなう。
朝の開店時間。周りの店もばたばたと忙しそうに準備している。使用人たちに混じって恬珂の姿がちらちらと見えた。真面目に働いている様子を、華婉と悠輝はこっそりと樹の陰から見ていた。
「なあ、婉姐。なんでこんなにこそこそしなきゃならないんだ?」
悠輝が不満げに口をとがらせる。いますぐにでもに声をかけて、頭でもはたきたいのだろう。
「あいつの居場所……それはわたしたちと、同じところではないかもしれない。それを見極めるためだ」
「なっ……じゃあ、恬珂をこのまま置いてくかもしれないってことか!?」
「あいつのためだ」
華婉は表情を変えずに答えた。悠輝はまだ何か言いたげだったが、とりあえずはそのまま見守ることに決めたらしい。
「おお、あれ」
悠輝が興奮したように指をさす。華婉も気づいていた。若い、身なりのいい男が恬珂と親しそうに話している。
恬珂の顔はやや赤みが差し、嬉しそうに笑っている。こんな表情は長いつきあいの華婉や悠輝でも、なかなか見たことがない。
「あれはたしか、あの店の主人の一人息子だ。使用人たちから若旦那と呼ばれていた」
店の警備を依頼されたとき多少話したことがある。そういえば、あのときから恬珂の様子がおかしかった。
「まんざらでもなさそうじゃないか。あのままのほうが、やっぱり恬珂は幸せなんだ」
少し淋しげに華婉はつぶやく。――これでいい。心の中で自分に言い聞かせた。
しかし、悠輝はいらついたように華婉の背中をばしばし叩く。
「いやあ、ありゃだめだ、婉姐。見てみろよ、あの男。なんか軽薄そうだし、身体もひょろひょろしてて頼りねえ。男ってのはな、もっとこう、むきむきっと逞しくて……」
「おまえの好みを言っても仕方がない。恬珂があの男に好意を寄せてるなら、それでいいじゃないか」
「…………」
悠輝は腕を組んで樹にもたれかかった。しばらくしてうーん、と唸ったあと、頭をぼりぼりと掻く。
「婉姐、いったん宿に帰ろう。夕方もう一回来てから恬珂をどうするか決める」
「そうだな、そうするか」
華婉も賛成する。連れ戻すにしろ置いていくにしろ、いますぐ決めるというのがなんとなく嫌だった。
🦋 🦋 🦋
宿へ戻り、夕方まで待つ。その間、仕事の依頼はなかった。
部屋の中で華婉と悠輝はほとんど言葉を交わすことがなかった。二人とも、朝見た光景に少なからず衝撃を受けていたのだ。
まだ子供だと思っていた。だが、考えてみればもう十六なのだ。恋のひとつやふたつをしたって不思議ではない。
しかし――あの男と親しそうに話しているところを思い出すと、妙にもやもやと不安な気持ちが湧き出てくる。年頃の娘を持つ父親、みたいな感じだろうか。
「なあ」
沈黙を破り、悠輝が話しかけてきた。華婉は暗い視線をそちらに向け、返事の代わりとする。
「あいつ……恬珂な、どこまであの男と進んでるんだろうな」
「え……?」
質問の意味がわからなかった。だが悠輝がほのかに顔を赤らめているのを見て、何が言いたいのかわかった。
「だから、二人の関係だよ。あの様子、距離感。ありゃあ、ただごとじゃないな。もしかしたら、く、く、くく、口づけぐらいはしたのかも」
口づけ――別の言い方で接吻。華婉の顔がぼっ、と赤くなった。
そんなもの、自分や悠輝は経験したことがない。いや、見たことすらない。男女間の規律が厳しい還界派で過ごしてきたのだから無理はないのだが。
それよりも妹だと思っていた恬珂が、自分たちの知らない未知の領域に踏み出そうとしている。いや、すでに体験し、さらに手に届かぬところまで行こうとしているのではないか。
華婉の顔がきっ、と引き締まった。
「確かめるぞ、悠輝」
悠輝も力強く頷く。
もう決めた。この決断が揺らぐことはない。華婉と悠輝は顔を見合わせ、もう一度頷いた。
朝と同じ場所。樹の陰から店の前をのぞき見る。
今度は閉店作業に追われているようだ。店の前に並べられた商品を使用人たちが手早く中へ運んでいる。
恬珂の姿は確認できなかった。店の中で作業しているのかもしれない。茜色の残光は山間を照らすのみとなり、辺りは薄暗くなりはじめていた。
「店の裏手にまわろう」
華婉が言い、悠輝もそれに従う。
店の裏手には広い庭。塀で囲ってあったが、武芸者である二人が飛び越えるのは容易だった。庭に降り立つと、二人はそれぞれ庭石と樹の陰へと身を潜める。
人が来ないことを確認し、裏口から店の中へ忍び込もうとしたときだった。扉の向こうから声が聞こえ、華婉と悠輝は再び身を隠す。
裏口の扉が開いた。店の中からの灯りが漏れ、二人の男女の影を映し出す。
若旦那と恬珂だった。恬珂は何かそわそわした様子で、しきりにうしろを気にしている。
若旦那のほうは、そんな恬珂を好ましげに見つめていた。
「あの……わたし、まだ仕事が――」
残ってる、と言おうとしたのだろう。だが若旦那は恬珂の手を引き、庭の中央で向かいあった。ちょうど華婉と悠輝に挟まれた位置だ。
若旦那の手が恬珂の細い腰に触れた。
あ、と声を漏らしつつ、身体を引く恬珂。だが若旦那は強引に自分の胸元へと引き寄せた。
「いけません、若旦那さま。こんなとこ、誰かに見られたら……」
顔を赤く染め、か細い声で非難する。だが、その目はうるんで抵抗するそぶりは見せない。
「恬珂さん。早く決めなければ、ぼくは数日後には鳳都に向かわなければならない。鳳都に新しく出す店は、ぼくが仕切らなければならないからね。この役目は他の誰にもゆずれないんだ。たとえ、父さんでも」
「でも、若旦那さまは……」
「ついてきて欲しい。それがぼくの正直な気持ちだ。君がいればどんな困難でも乗り越えられる。君だってこんな田舎にずっと住んでいたいわけじゃないだろう? これはね、ぼくのためでもあり、君のためでもあるんだ」
腰に添えた手とは別の手で、恬珂の顎をくい、と上げた。
その桃色の小さな唇に、己が唇を重ねようと若旦那が顔を近づける。その時――。
「ちょっと待ったあ!」
突然の叫び声と同時に、庭の陰から飛び出したふたつの影。
男女は反射的に抱き合っていた相手を突き飛ばした。――よろめく二人。そんな二人の動揺を楽しむように影は近づく。
「よう、色男」
悠輝が揶揄するような口調で、笑みを浮かべた。華婉は少し離れた場所で、無表情で突っ立っている。
「か、霍姐と婉姐! どうしてここに……」
恬珂が驚き、その場にぺたりと座り込む。若旦那は果敢にも、それを守るようにして一歩前に出た。
「おや、あなたはたしか……恬珂さんのお連れの方でしたね。なるほど、お金銭が用意できたので彼女を連れ戻しにきたというわけですか」
「そうだ。随分と時間がかかったが、金銭は用意できた。さあ恬珂、行こうか」
華婉が金銭の入った袋を取り出して、若旦那のほうに突き出す。しかし若旦那は軽く首を振ってそれを受け取らなかった。
「お金銭はもう結構です。ぼくのほうから父に言っておきましょう。その代わり、恬珂さんはぼくのそばに置いておくことになりますが」
若旦那は振り返り、恬珂へ手を差し伸べた。しかし恬珂はまだ困惑した様子で、それには反応しない。
「置いておくってな、物じゃねえんだからよ。それにな、おれらの大事な師妹をおまえみたいな女たらしのところに残して行けるか」
悠輝が言い放ち、ずいと前に出る。さすがの若旦那も気後れしたようで、救いを求めるように恬珂を横目で見た。
「ま、待ってよ霍姐。若旦那さまはね、そんな人じゃないんだよ。婉姐に置いていかれて不安だったわたしに、とっても優しくしてくれたんだよ」
若旦那の期待通りに恬珂がかばう。これには悠輝だけでなく、華婉も苦虫を潰したような顔になった。
「おまえはな、騙されてんだ。男ってのはな、優しいふりして女に近づこうとするんだ。しばらくすりゃあ、手の平返したように態度ががらりと変わる」
必死になって説得する悠輝を見て、華婉は思わず吹き出しそうになった。
いまのは異性と一度も付き合ったことがない娘が言う台詞ではない。噂で聞いたようなことを適当に並べているだけだろう。
「大事なのは、彼女の――恬珂さんの気持ちでしょう? 訊いてごらんなさい。彼女がぼくのことをどう思っているか。そして、彼女がぼくを選ぶかあなたたちを選ぶか」
恬珂の助けを得て調子づいたのか、若旦那は勝ち誇ったように訊く。
一同の視線は、恬珂の口元に集中した。
「え、わたし、若旦那さまにはついていかないよ」
あっさりと否定する恬珂。華婉と悠輝は唖然とし、若旦那は真っ赤になって恬珂に詰め寄る。
「そ、そんな! あなたはぼくのことが好きだと言ってくれたではありませんか。あれは嘘だったのですか?」
「うん、嘘。ごめんね」
「ええ~っ!」
若旦那はわなわなと震え、目には涙を溜めている。それを見て華婉はほんの少し気の毒になった。
「婉姐に置いていかれて、むしゃくしゃしてたから。若旦那さまはわたしのこと好きみたいだったから、なんて言うか……勢いで。本当にごめんね」
言葉とは裏腹に、その顔に反省の色は見えない。悪気が無いだけに実に性質が悪い。
「うわ、おまえ。ひっでえぞ、それ」
悠輝の軽蔑するような視線。恬珂はそれを避けるように、とどめの一言を若旦那に向けた。
「だってこの人、奥さんいるもの」
――しばしの沈黙。
「なあぁ~にいぃ~」
鬼のような形相で悠輝が睨む。若旦那は完全に肝をつぶしたようで、震える声で何か言い訳をしているようだった。まず、悠輝の耳には届いていない。
貯めた金銭はやっぱり治療費として置いていこう。華婉はそう思った。まあ、全治一ヶ月ぐらいだろう。
これから起こる惨劇を見る気にはなれないと華婉は背を向けたが、若旦那の悲鳴だけはばっちりと聞こえた。
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