夜になった。使用人たちが、華婉たちの分を含めた食事を部屋まで運んできた。ここでようやく悠輝と恬珂の機嫌もいくらか良くなった。
食事が終わると、再び退屈な時間が戻ってきた。
華婉は湯でも浴びてさっぱりしたいと考えたが、陳盛がそれを許しそうにもないので口には出さない。
しばらく時が過ぎて陳盛が寝台に横になった。自分が眠ってしまっても灯りを消さないようにと、布団をかぶりながら。
交代で眠ることにした華婉たち。用意された寝台の前で恬珂が一緒に寝ようよー、と誘ってきたがきっぱりと断った。この娘は必ず抱きついてくるので暑苦しい。
結局、寝台に飛び込むように横になったのは悠輝と恬珂。華婉は部屋全体を見回せる位置で壁にもたれる。
浅い眠気を感じながら今夜は何も起きそうにないな、と思った。初日からいきなり出番がくるのも面倒だ。
それにしてもなぜ陳盛という男は狙われているのだろうか。同僚の三人が殺された、ということだが、それだけで自分も狙われていると思うのだろうか。
殺された三人と陳盛には、なんらかの共通点があるはずだ。もっともそれは、陳盛など朝廷の一部の者にしかわからないことかもしれない。
(――む)
華婉は長剣の柄に手をかけ、身構える。背中をぞぞぞ、と冷たいものが這い上がってくるような感覚。
「そんな、まさか――」
項家荘で襲われたときと同じだった。外からじわじわと静かに、だが確実に近づいてくる殺気。華婉は素早く視線を動かす。
寝台で寝ている悠輝と恬珂。呆れるほど寝相の悪い悠輝に押しやられ、恬珂の身体が半分ずり落ちている。
部屋の周辺には護衛の兵が他の場所よりも多く配置されているはずだ。この部屋に押し入るつもりなら、その全員を相手にしなければならない。
「敵襲だ。悠輝、恬珂、起きろ」
それだけ言って華婉は長剣を抜いた。さすが武芸者というべきか、二人ともすぐにはね起きて臨戦態勢。華婉の敵に対する感知能力の高さを信頼しているのだ。
悠輝は扉の前。いつでも敵が踏み込んできてもいいように待ち構える。
恬珂は窓からの侵入者を迎撃できるよう、腰に差していた長さ三尺ほどの鉄鞭に手をかけた。
華婉はなるべく陳盛から離れないように周囲を警戒した。陳盛は自身に危険がせまっているとは夢にも思わず、のんきに寝息を立てている。
――静寂。耳鳴りがするほどの静けさ。だが、凍てつくような殺気は強さを増していた。
かすかに、呻くような声と床に倒れる音。部屋の周辺にいた兵たちが殺されたのは間違いない。
それは同時だった。部屋の扉と、向かい側にある窓が吹き飛んだ。
悠輝が飛んできた扉の破片を叩き落して罵声を飛ばし、恬珂は「もう、最悪」と叫んで鉄鞭を振り回していた。
部屋の入り口――黒く塗りつぶされた闇の背景に浮かぶ、角ばった銀の輪郭。
ぬっと入ってきて、それが頭部を丸ごと覆う鉄兜だとわかった。
その兜を被っているのは巨漢。袖の無いぼろぼろの上着。むきだしになった両腕はごつごつとした筋肉に覆われ、太さは常人の倍はある。それは脚も同じで、しかも裸足。
そのなんとも奇妙な格好に相対した悠輝は戸惑っているようだったが、鳶色の瞳はすぐに敵意をむきだしにした。
「なんだ、てめえは」
答えを待つまでもなく、鉄兜にむかって飛びかかった。
破壊された窓から飛び込んできたのは、体形からしておそらくは女。
くすんだ赤と緑の衣装を身にまとい、こちらは演劇にでも使うような猿の面をつけている。手に短い棒のような物を持ち、身をかがめたまま動かない。
「お猿さん……敵だよね?」
恬珂は鉄鞭の上下を握り、じゃきっ、とひねる。するとその長さが背丈以上に伸びた。これはもう、鉄鞭ではなく鉄棒と呼ぶべき代物だった。
猿面の女が動いた。恬珂も気合を発して鉄棒を突き出す。
この二人は陽動――。華婉は瞬時にそう判断した。どちらかに加勢に向かえば陳盛が殺られる。
華婉はその場から動くわけにはいかなかった。陳盛はさすがにこの騒ぎに飛び起きたようで、すぐ寝台の下に隠れたようだ。
「うおらああぁっ」
鉄兜の厚い胸板めがけ、悠輝が拳を打ち込む。ドン、ドンドンドン、と鈍い音とともによろよろと後退するが、さして効いているようには見えない。
恬珂は鉄棒を振り回しながらも、猿面の女に翻弄されていた。猿面の女は飛び跳ねたり、床を転がったりと棒先をかすらせもしない。
「もうっ、ぜんっぜん当たんないよっ!」
恬珂のいらついた声が部屋に響く。
――背後に凍てつくような気配。華婉は慄然とし、振り返る。悠輝と恬珂のほうへわずかに視線を逸らしただけだった。陳盛のいる寝台周辺の警戒を怠ったわけではない。
しかし、その寝台の上には男が立っていた。重たげな龍の被り物を被った男。そう、項家荘に現れ、三叉龍と名乗ったあの男だ。
「おまえは――」
華婉が驚いていると、三叉龍は護衛の兵から奪ったであろう槍を逆手に持ち、ぐうん、と振り上げた。
「やめろっ!」
華婉が叫び、飛び出したが間に合わなかった。
寝台に深々と槍が突き刺さり、絶叫とともにがたがたと揺れる。揺れが収まった頃には下からじわじわと大量の血が流れ出、元々赤い絨毯に赤黒い染みを広げる。
「鏢師がいるとは聞いていたが……おまえらのことだったのか」
三叉龍は何事もなかったかのように寝台から降りて華婉に質問した。
質問したいのはこっちのほうだが、この男に出会ったからにはおとなしく問答するつもりはない。
大きく踏み込んで斬りつける。三叉龍は軽く右腕をあげてそれをがちりと受け止めた。どうやら鉄製の手甲を仕込んでいるらしい。
「ふむ、さすがに威力は落ちたか。だが太刀筋の疾さは右腕の頃とそう変わらんな。さすがというべきか」
刃を受け止めたまま、冷静に分析したようなことを言う。華婉はいらだち、下から蹴りを放つ。しかし、これも難なく手甲で受け流された。
「よせ、おれたちの目的は別にある。貴様らと戦う理由はない」
三叉龍は跳躍し、再び寝台の上に。華婉は声を荒げた。
「おまえにはなくても、わたしにはある! 周姐の仇だっ!」
「まあ、待て。いい機会だ。しばらくそこで見物してろ」
――ばかんっ。突然、寝台が真っ二つに割れ、何かが飛び出してきた。その何かは猛り狂ったかのように、三叉龍の腕に喰らいつく。
華婉はわが目を疑う。はじめて見る、その異形。人ではないことは確実だが――。
陳盛の着物を着てはいるものの、その間からはみ出ている、長すぎる体毛。手足の爪は大型の肉食獣のごとく鉤状に伸びていた。顔はまるで犬のようで、口から鋭利な牙をずらりとのぞかせている。
「……これは!?」
華婉は後ずさる。三叉龍は低い声で笑った。
「驚いたか? これが貴様らが守ろうとした男の正体だ」
「なんだと……これが陳盛だというのか? なぜ、こんな」
「以前にも言ったな。おまえが知る必要はない。おれが言う必要も、と」
がりがり、がりがりと手甲を噛み砕かん勢いでその化け物は顎を動かす。三叉龍は残る左手を軽く振った。
「おまえが知っていいのは……そうだな。なぜおれが三叉龍と呼ばれているか。それぐらいだ」
いつの間にか三叉龍の左手は金色の龍の頭に変化していた。よく見れば右手も。手甲の正体はこれだったのかと華婉が推測する間に、その腕で化け物の腹を打った。
ギャヒィンッ、と鳴き声をあげて化け物が離れる。三叉龍は両手の金龍を構え、その顎を開閉させる。
じゃきん、じゃきんっ、と小気味よい音。金龍の鋭い歯がこすれ合う音だ。これは龍の頭をした鋏といっていいかもしれない。
四つん這いの姿勢から化け物が跳躍。頭部を天井にこするほどの高さから三叉龍に覆いかぶさり、その首に牙を突き立てた――かに見えた。
だが血飛沫をまき散らして床に転がったのは化け物のほうだった。首と脇腹の肉が大きく喰いちぎられている。あの金龍の鋏による傷に違いなかった。
傷口から金色の光りが溢れ出、化け物は叫び声をあげる。それが全身を包み込むと一気に消滅。一滴の血すら残さなかった。
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