序章
黎月亭――。燦鼎門から天宮へと続く途中の苑内にあるあずまや。色とりどりの草花に囲まれたその中で、青年は茶を楽しむことを日課としていた。
穏やかな空気と緩やかに流れる時間。だが、それをかき乱す者が近づきつつある。
「――黎月」
このあずまやと同じ名の少女。朱の着物の袖をなびかせ、足元に咲き乱れる花を踏み倒しながらずんずんとこちらに向かってくる。
ここまで来るのには歩道があるのだが、いつもながら迂回するつもりはないらしい。
「仰陽、決まったわ。わたしのね、転生する日」
黎月はくりくりした瞳を輝かせて無邪気に笑う。仰陽と呼ばれた青年は咎める気が失せてしまった。
白い着物の袖をさっと振る。金銀に輝く粉が舞い散ったかと思うと、無残に踏み倒されたはずの草花が瞬く間に蘇った。
足元でそんな奇跡が起こっているにもかかわらず、高く結い上げた髪の少女、黎月は気にもとめずに青年の真向かいの席に座った。
「やっとよ、やっと。謹慎ってほんと長かった。いくらここが広いからってさあ、外に出れないなんてひどいわよ」
仰陽が湯気の立ち昇る茶杯を差し出すと、黎月は香りを楽しむようにゆっくりと口をつけた。
「仙として暮らすのにはなんの不自由もなかったはずだけど。それにまだ終わったわけではないよ、きみの試練は」
九百年前――人間同士の争いを調停すべく黎月は地上、つまり人間界に降り立った。
しかし、その好戦的な性格が災いして調停どころか仙と妖を巻き込んだ戦いを引き起こしてしまった。
しかも部下の十二仙をすべて失ったのだ。
これで四方天尊の怒りを買い、天界の佳剣宮にて千年の謹慎を命じられていた。
あと百年を残した状態で近々恩赦が下されることは仰陽も知っていた。だが、最後の試練が条件となる。
人間界で人として転生し、その生を終える前にある使命を果たさなければならない。
「それよ。あいつらだって佳剣宮の仙として責務を果たしたんだからさあ、いいんじゃないの? ほっといても。いまさら回収だの救出だのって、わけわかんないわ」
黎月はむくれて卓の上を両手で叩く。
仰陽は黎月、と今度ばかりはやや強めに注意する。その額にある、第三の眼が開きつつあった。黎月は慌てて卓の下に手を引っ込める。
「そんなこと、他の者に聞かれたら大変だよ。今度の機会を逃したらもう二度と謹慎が解かれないかもしれない。それでもいいのかい?」
「……わかってるわよ。でも、人間になっちゃったら仙の頃の記憶も力も無くなるんでしょ? そんなんでどうやって使命を果たせっていうのかしら」
「あの方たちにはそれなりに考えがあるさ。心配しなくても大丈夫」
天界で生まれた、純血たる最後の天仙といわれ、その期待を裏切ることなく百年足らずで佳剣宮の主・月天女佳剣君となった才の持ち主。
神仙として地上に降臨すればその影響ははかり知れない。九百年前と同じ過ちを繰り返すわけにはいかないのだ。
仰陽は一人の男の名を思い出していた。――九百年もの間、地上にとどまっている男の名を。
転生した黎月をひそかに補佐するよう、頼むことになるだろう。過去の因縁からして簡単には了承しないと思うのだが。
金の装飾が施された茶杯。その縁を指でなぞりながら、仰陽は古い友人の名をつぶやいた。
「え? いま、なんか言った?」
目ざとく訊いてくる少女に、仰陽は微笑みながら答える。
「使命を無事に果たし、人の生を終えれば天界に仙として戻ってこられる。待っているよ、黎月。わたしたちからすれば大した時間ではないからね」
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