──気に食わないことばかりだ。
修練場の裏。長椅子の上に仰向けに寝そべりながら、何度つぶやいただろう。
軽い眠気を感じながら、華婉はその気に食わないことをまた考えはじめた。
――還界派。彰国でも一、二を争うほど有名な武芸の門派。
武の境地を目指す者たちが集い、日々研鑽を重ねる場所。
還界派の門弟は男ならば〈鉸龍〉、女ならば〈桃花〉というふうに、二ヶ所の修練場に分けられている。
掌門は高元真。〈鉸龍〉と〈桃花〉を総轄する立場だが、実質的なことは二人の師範代が務めている。
〈鉸龍〉をまとめているのは、その師範代の一人にして元真の長子、高継山。
〈桃花〉をまとめているのは、もう一人の師範代、李慧。
華婉が気に入らないのは、自分の属している〈桃花〉が〈鉸龍〉よりもずっと格下に扱われていることだ。
李慧は師範代という肩書きだが、あくまで権限は〈桃花〉の中でのみ通用する。〈鉸龍〉の一般の門弟から敬われるようなことはない。
もっと気に食わないのは李慧が〈鉸龍〉に対しておもねるような態度をとっていることだ。特に継山と話しているときなど、若い男に入れ込んでいる年増の女としか見えない。
還界派は七百年ほど前に二人の武芸者がお互いの技を融合させて創った門派だといわれている。〈桃花〉というのはその開祖の一人(名は忘れた。多分、女)が、還界山に住んでいたという化け物を桃花の枝で撃退したという伝説からきている。
対して〈鉸龍〉は、もう一人の開祖(この名も忘れた。多分、男)が天啓を受け、なぜか知らないが龍を友とし、協力して化け物を倒したという伝説。
同じ門派で似たような伝説が二つ。どっちも開祖を神聖化した嘘っぱちだろうが、龍に対して桃の花ではちょっと情けない。もしかしたらこれも〈桃花〉が軽んじられている原因かもしれない。
だが、胸のすくようなこともひとつある。
三年に一度開かれる還界派の武芸大会・龍花。その大会で昨年自分が優勝したことだ。
〈桃花〉から優勝者が出るのは、還界派始まって以来のことだそうだ。
あの〈鉸龍〉の門弟たちの悔しそうな顔を思い出すと、ついにんまりしてしまう。
同じ〈桃花〉の仲間たちは、我がことのように喜んでくれた。しかし師範代の李慧は褒めてはくれなかった。
いらぬことを、といわんばかりの態度だった。〈桃花〉は〈鉸龍〉を上回ってはいけない。それが暗黙の了解とでもいうのだろうか。
「――気に食わない」
また、つぶやいていた。
ふいに向こうから自分を呼ぶ明るい声。上体を起こして確認。二つ結びのおさげの少女が手を振りながら走ってきた。
悩みや不満などとは無縁であろうその笑顔がなんともうらやましい。名は楊恬珂。
十五歳という年齢がなせる業だろうか。両手をぶんぶん振るのも、飛び跳ねているといったほうが近い走り方も。
いや、あの図抜けた明るさと無邪気さはあの娘特有のものだ。華婉が三年前に戻って同じ年齢になったとしても真似できるものではない。してたまるかと苦笑する。
「婉姐、またこんな所で寝てたの? 李師範代が集合かけたみたいだからさあ、はやく修練場に集まんなきゃ周姐さまが怒られるんだよ」
「わかったよ、恬珂。いま行く」
気だるそうに返事をすると、恬珂は急かすように手をとって立つのを手伝ってくれた。
〈桃花〉では門弟は四人一組づつ班に分けられている。修練はもちろん、普段の生活も一緒に行動する。恬珂は同じ班の一人なのだ。
門弟を班分けにしている理由はこういうふうに単独行動を取る人間がいればすぐに判明するし、すぐに連れ戻せる。理由はわかるが――集団だとか、管理されるとかいうのは華婉はどうも苦手だった。班の者たちとはとても仲が良いのだが。
恬珂に手を引かれながら歩いていくと、修練場にはすでに揃いの露草色の集団が整列していた。全員で八十名。〈鉸龍〉に比べて人数はずっと少なく、修練場の規模も小さい。
同じ班の周渓と霍悠輝が待っていた。駆け足で悠輝のうしろへ並ぶ。
赤みがかった短い髪。振り向いた瞳は鳶色。気の強そうな顔に得意そうな表情。
「婉姐。間に合ったってことは、おれの勘が当たったってわけだ。あの場所に恬珂を呼びに行かせたのはおれなんだからよ。今度の掃除当番、代わってくれよな」
「わかってる。いつも感謝しているよ、おまえには。李師範代の小言は呆れるほど長いからな。あればっかりは耐えられん」
悠輝の肩を叩きながら笑顔で応えると、うしろで恬珂が着物を引っ張る。
「呼びに行ったのはわたしだよ。霍姐はね、いっつもわたしばっかりに呼びにいかせるんだよ。どこにいるかわかってるんだったら、自分で行けばいいのに」
「おまえが一番年下だろ。年長者の言うことは聞くもんだ」
恬珂の非難をあっさり受け流す悠輝。恬珂はまだ口をとがらせてぶつぶつ言っている。
「年長者って、わたしよりひとつ上なだけだよ。あーあ、わたしより年下の娘が班に入ってくれればいいのに」
「恬珂、いつも呼びに来てくれるおまえにも感謝しているよ。今度城市で何か買ってやるから」
なだめると、恬珂はすぐに機嫌を直す。掃除当番とちょっとした出費。午前中の班合同の修練を怠けた代償は少し高くなるようだった。
華婉は探るように先頭に目を向ける。腰以上ある美しい黒髪と気品溢れる後姿。班長の周渓はあいかわらずの美の彫像ともいうべき不動の態勢。怒っているようには見えないので、ほっとした。(怒ったところなんか一度も見たことないが)
華婉たち三人がしばらく話していると、周渓がちらりと振り向いた。何気ない動きにも清楚さ、しとやかさがにじみ出ている。三人はすぐに押し黙る。これは静かになさい、という意味だ。
一人の女が向こうから歩いてくる。遠目からでも師範代の李慧だとわかった。
黄の着物に身を包み、帯や羽織った上着には華美な刺繍。結い上げた髪には高価そうなかんざしをいくつも挿している。武に携わる者とは思えないほど着飾った格好だ。
「へえ、今日はまた一段と派手だな。化粧もやたらと濃いし」
悠輝が呆れたように言うと、恬珂が納得したように頷く。
「ああ、そういえばさっき、高師兄を見たよ。長男のほうね。だからあんなにおめかししてるんだよ」
「相変わらずだな。あいつがそんな態度だから、〈桃花〉は〈鉸龍〉より下に見られるんだ」
周渓が再び振り返った。悠輝と恬珂は顔を見合わせ、片目をつぶって舌を出した。
李慧が整列した門弟たちの前に立つ。
華婉は少し首を傾けて、その顔を見た。美人の部類には入るが、歳は三十をとうに過ぎている。肝心の武芸の腕はすでに錆付いているらしい。ここ数年、剣を振っているところさえ見たことがない。師範代の肩書きは名ばかりのものだ。
李慧は門弟たちを見渡す。全員が揃っていることを確認すると、その上品な唇を開いた。
「先ほど、高師範代からお話がありました。北の泰来から馬賊の侵入が著しく増えているそうです。国境付近では〈迅騎〉が活躍していますが、それでもすべての進入を防ぐことはできません。そこで近隣の城市や村での警備を依頼されることが多くなります。各々、日々の精進を怠らぬよう修練に励んでください」
馬賊とは北の騎馬民族国家、泰来から流出してくる盗賊団のことである。もっとも自分たちでは真王騎兵団と名乗っているらしいが、彰でその名称を知る者はほとんどいない。
華婉が生まれた頃、長年争ってきた両国――彰と泰来が講和し、ほぼ同時期に馬賊の略奪行為がはじまった。
馬賊の流入を防ごうにも講和条約のせいで大軍を国境には配備できない。国境に接する石州、弁州、殻州の三州の守備軍は連携の悪さも手伝って、馬賊の少数騎兵による一撃離脱戦法に手を焼いている状態だった。
そこで中央から北威討寇大使に任命された張冷起は対馬賊用の部隊〈迅騎〉を結成する。三州の守備隊から選りすぐった精鋭騎兵で、三州をまたがった遊撃戦を展開できる。
その〈迅騎〉と馬賊の交戦が最も激しい場所はこの石州なのだ。
三州の中でも石州は土地の広さと平坦な地形のせいで、両国が交戦状態であったときから戦火が絶えなかった。講和が成立し、平和になったかと思えば馬賊の跳梁に悩まされている。この地に住む民にとって、はなはだ迷惑な話であった。
〈迅騎〉が結成されてからは百を超すような馬賊の襲撃は激減したが、かわりに十や二十といった少数での略奪が目立つようになった。そこで、狙われやすい小さな村は還界派などの門派や鏢局に警備を依頼する。還界派も自主的に城市や村の巡回を行っていた。
李慧は繰り返し気を引き締めるようなことと、還界派の門弟として恥ずかしくない行動を心がけること、ということを熱く語って解散を命じた。立ち去るとき、ちらりとこちらを見たような気がした。
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