〈鉸龍〉の敷地内の一番奥。そこには岩壁を背にした広大な掌門の屋敷。華美な装飾こそないが、建材や家具は質の良いもので統一されている。いつかここが自分のものになると思うと高継山は悪い気はしなかった。
寝室。寝台に横たわっている痩せた老人に促され、継山はその上体を起こすのを手伝う。
老人――老いと病で骨と皮ばかりになってしまった実の父、元真。その地位はいまだ還界派の掌門。病床の身であるなら隠居し、次期掌門にその座を譲るのが普通だと思われるのだが、この老人にはそれが出来ない理由があった。
「今日も来ていたらしいな」
ふいに訊かれ、誰のことかわかっていたが継山はあえて確認するように訊き返す。
「〈桃花〉の華婉のことでしょうか」
「そうだ」
「〈鉸龍〉の者との試合を望んでいたようですが、結局は洪永を相手にしただけです」
それを聞いて元真は目を閉じ、胸のあたりを押さえた。心臓を病んでおり、時々苦しそうな表情を見せる。
「老いる、というのは恐ろしいことだ、継山。強さも、栄光も全て過去のものだ。だから若い者たちに昔はこうだった、こんなにわしは強かった、と過去のことばかり話してしまう」
「皆、父上の偉業を知っていますし、尊敬もしています。早く病を治して元気な姿を見せてやってください」
「ふ、わしはな、もう長くない。わかるのだ継山。だが、このままでは死のうにも死ねぬ。あと十……いや、五歳も若ければ龍花に出場していた」
ここで責めるような視線を向けてきた。継山はいつものことで慣れている。
「決勝で不覚を取ったのは、たしかにわたしの責任です。ですが次こそ、二年後の龍花で雪辱を果たしてみせましょう。ですから父上も気弱なことをおっしゃらずに、それをしかと見届けてください」
「わしの身体はそれまで持たぬ。よいか、女の優勝者など本来あってはならんことだ。そしてわが還界派の掌門の座は代々世襲ではなく、武芸の実力によって決まる。その基準となるのは無論、龍花の結果。つまり――」
「このままでは華婉が次期掌門となる、ということですね」
去年の龍花以来、ずっと責めるように言われ続けてきたことである。歳を取ると同じことを何度も繰り返して言うものだろう、と継山は腹も立てなかった。
「長い間、高一族の誰かが優勝を手にしてきた。これは誇りであり、還界派の強さを象徴する伝統だったのだ。もしもあの娘が掌門となってみろ。他門派から嘲笑を浴びせられるのは間違いない。権威は失墜し、武林での地位を失う。七百年だ。七百年の歴史を持つ、還界派がだぞ」
次第に興奮してきたようだ。胸の痛みも忘れている。元真の目に何かしら異常な光が宿っているように見えた。
「……〈百面〉を使わねばならん」
「!?――どういう意味ですか」
「わしが死んでからでは遅い。〈百面〉に命じ、いまのうちに始末させるのだ」
「しかし、〈百面〉の者たちは本来――」
「手段を選んではおれぬ。それに、これは還界派のためなのだ。継山、やり方は任せる。おまえが指示を出すのだ」
「父上……」
継山はすぐには頷けなかった。父がこれほどまでに、次期掌門について思い悩んでいるとは思っていなかった。
たしかに還界派の掌門は武芸の実力で決まる、と創設以来の掟で決まっている。これは還界派の門弟はおろか、他門派でも知っている有名な話だ。
ただ継山は二年後の龍花で華婉に勝つ自信があった。前々回の龍花では実際に勝利を収めているし、昨年の試合も僅差で判定負けだった。次期掌門のことなど、それほど切羽詰ったものだとは考えもしなかった。
「よいか、〈百面〉にここまでさせるのはおまえの責任でもある。還界派、そして高一族の命運がかかっていると肝に銘じておけ。わかったら、退るがよい」
「…………」
継山は無言のまま、頭を下げて退室した。
はっきり承諾こそしなかったが、継山には選択権などない。掌門としての父の立場は痛いほどわかる。だがそれでも釈然としなかった。
めずらしくいらだっている。父にではなく、自分自身に。このいらだちをぶつける当てもないまま、掌門の屋敷をあとにした。
🦋 🦋 🦋
午後の修練が終わり、華婉たちは宿舎の部屋へと戻る。
その途中で、華婉は周渓がいないことに気づいた。
「おい、周姐は? どこへ行ったんだ」
「ああ、なんか李師範代に呼ばれたって」
答えたのは悠輝。恬珂が思い出したように騒ぎ出す。
「ああっ! 今日の当番、周姐さまよ。どうするの?」
「夕食までには戻るだろ。間に合わなくても、おまえが代わりに作ればいいし」
「どうしてわたしが? 霍姐がやってよ」
「めんどくせえな。おまえがやれよ」
またくだらない言い合いがはじまりそうだ。いつもは周渓の役目だが華婉が二人の間に入る。
「そのときはわたしが作るから。ほら、部屋に戻るぞ」
二人を部屋の中へ押し込んだあと、それほど待たずして周渓は戻ってきた。しかしその表情は暗い。
恬珂が華婉と悠輝の背中をとんとんと叩く。
「さ、二人とも。いまのうちに周姐さまに謝ったほうがいいよ」
「どういう意味だ?」
悠輝が半眼で訊くと、恬珂は周渓のそばに駆け寄って手を握る。
「かわいそうな周姐さま。きっと婉姐と霍姐のせいで怒られたんだよ。ほら、まえに霍姐が酔って師範代の庭の木を折っちゃったでしょ。あれがばれたんだよ。婉姐はねえ、〈鉸龍〉の嫌いなやつをぎたぎたに叩きのめしたとか。……もしかしたら、殺してどこかに埋めたのがばれたとか」
「おまえな……」
華婉は呆れた顔で溜息をつく。悠輝もふざけるな、と恬珂を指さした。
「おまえも人のこと言えるか。李師範代の部屋に忍び込んで、勝手に化粧品を使ったのは誰だったかな」
「え~、そんな昔のこと、よく覚えてるね。いまさらそんなことじゃ怒られないよ」
「周姐、本当は何を言われたんだ?」
話が一向に進まないので、たまりかねて華婉が訊く。周渓は軽く頷いた。
「とにかく皆さん、椅子に掛けてください。それから話しましょう」
周渓の澄んだ声は普段から小さいが、修練のときなどは不思議とよく聞こえる。しかしいまの声はただ小さくて聞き取りにくかった。
全員が椅子に座る。周渓がなぜ師範代の李慧に呼び出されたのかを話し出した。その声はやはり気落ちしたように小さい。
「わたしたち第三班に、特別な任務が与えられました。内容は……項家荘に潜伏していると思われる馬賊を見つけだすこと」
項家荘、と聞いて華婉と恬珂の顔色が変わる。その反応を見て周渓が申しわけなさそうにうなだれる。
「華婉と恬珂のことを考え、わたしはその任務を断りました。ですが、これは掌門直々の命令。拒否することは許されない、と」
「なんだよそれ! 冗談じゃねえよ!」
悠輝が声を荒げ、卓を両手で叩いた。隣に座っていた華婉はその肩に手を置く。
「落ち着け。わたしと恬珂が項家荘出身だから、そういう命令がきたんだろう。あの村はたしかに還界山に近い。馬賊が潜んでいるとしたら、放置しておくわけにはいかない」
「でも、あの村は――」
「十年前に馬賊に滅ぼされ、いまは廃墟だ。しかし、還界派の情報なら確かなことなんだろう」
そう訊くと、周渓が複雑な表情でええ、と答えた。
「ただ、その潜伏している数などは不明です。門弟が大挙して押し寄せれば、近隣の城市や村を巻き込んだ戦闘になるかもしれません。だからわたしたちが偵察のような形で潜入するのでしょう」
「ねえ、本当に馬賊がいたら?」
不安げに訊く恬珂。この命令で、一番嫌な思いをしているのはこの娘かもしれない。
「とりあえずは報告のみ。戦闘までは命じられていません。しかし状況によっては戦わねばならないでしょう」
「そうなんだ……」
恬珂が視線を落とす。悠輝はまだ納得がいかないようだ。
「いるかどうかもはっきりしない馬賊をさがしてこいだと? そんなもん、〈鉸龍〉のやつにやらせろってんだ。ここより人数多いんだし、暇なやつは腐るほどいるだろ」
「周姐、出発は?」
愚痴ったところでどうにもならない。それは皆わかっているはずだ。悠輝の肩に手を置いたまま、華婉は訊いた。
「明日、夜明けとともに。日が落ちるまでに終わらせたいですから」
「また急だな」
「今夜のうちに準備をしておきましょう。悠輝、恬珂、いいですね」
恬珂は何も言わずに頷いた。悠輝はぼりぼりと頭を掻いている。
項家荘――。もう二度と行くことはないだろうと思っていた、馬賊に滅ぼされた故郷。
華婉は自分の胸に手を置き、落ち着けるようにゆっくりと息を吐き出した。
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