結局、恬珂も鏢師の仕事に加わることになった。
身近にいたほうが安全かもしれないと、華婉は無理にでも納得することにした。
あの店に人質として置き去りにしたことを恨んでいないのか、と訊くと「もういいよ」といつもの笑顔を見せたので幾分ほっとした。しかし、この娘は表情とは裏腹に何を考えているのかわからないので油断ならない。
宿に戻ると魯進が仕事の依頼があったと、やや興奮気味に教えてくれた。どうやら随分と羽振りのいい相手からの依頼らしい。
「その依頼、もちろん受けるんだろ?」
勢い込んで訊いてくる悠輝。まあまて、と華婉はその内容を確認する。
依頼人は朝廷に仕える高官で陳盛という名らしい。要はその身辺の護衛、という簡単な内容だった。なぜこのような地方で、なぜその身が危険に晒されているのか、ということは言わなかったらしい。
「なーんか、怪しいね」
恬珂が低い声で言い、華婉も頷いた。
「鳳都からの旅の人から聞いたんですけどね、鳳都では朝廷の要職に就いている方が、三人も立て続けに殺されたそうですよ。その陳盛という方も、身の危険を感じてここまで逃げてきたのではないでしょうか」
魯進の情報に華婉は首をかしげた。
「そうだとしても、朝廷の高官なら護衛は腐るほどいるだろうに。わざわざわたしたちに頼む必要があるだろうか?」
華婉のもっともな疑問に、皆考え込んだ。
「まあ、悩んだところで何もわからねえって。それよか、早く飯にしようぜ」
やはり最初に考え込むのをやめたのは悠輝だった。華婉とも空腹なのは同じだったので、笑いながらそれに賛同した。
三人で卓を囲む夕食の時間。北側の席はいつもは周渓が座っていた席だった。現在、そこはもちろん空席。口うるさく注意されていたときは厄介だと思ったが、これはこれでとても淋しい。
しんみりしながらの食事だったが、次第にやかましくなっていくのが約一名。
手酌で安酒を浴びるように飲んでいる悠輝だった。真っ赤な顔と酒臭い息で恬珂にからみだしたが、還界派にいた時もめずらしいことではなかったので、恬珂の対応も慣れたものだ。
「おう、おめえ、あれだ、あの若旦那。あいつとだな、どーこまで進んでたんだ。まさかとは思うが、お、おめえな、け、結婚前の婦女子にあるまじき、こ、行為をだな……ええい、面倒な。はっきりしやがれ!」
「霍姐、相変わらずだね。あんまりお酒強くないくせに、たくさん飲んじゃって。何言ってるかわかんないよ」
「と、ととととぼけんな、おめえは。見てたんだぞ、おれたちは。あの店の裏でな、あいつと、く、くく口づけしようとしてたろ!」
「ああ、あれ? あんなの、本当にするわけないよ。もしかして心配した? 若旦那さまはねえ、顔はいいけど、奥さんいるし」
華婉は興味なさそうに料理を箸でつついていたが、耳だけはしっかりとそちらに向けている。
「じゃ、じゃあ、なんだ。あの野郎とは何もなかったってんだな」
「そうだよ。もう、しつこい」
華婉と悠輝は同時に安堵の溜息をついた。とりあえず、妹分に先を越される危機は去ったわけだ。
それにしても口づけとはどんなものだろうか。あの行為に、一体なんの意味があるのか。好意を寄せている者同士が自然と行うものなのだろうか。
いずれは自分も――まだ見ぬ相手と口づけする光景を華婉は想像した。
目を閉じてその瞬間をじっと待つ自分。そして相手は――唇をむちゅーっと突き出した洪永。
一気に現実に引き戻され、華婉は首をぶんぶんと振る。
「な、なんであいつが」
手にしていた箸がべきべきとへし折れる。
「どうしたの、婉姐。霍姐みたいに顔が真っ赤だよ」
恬珂が不思議そうに訊き、華婉はそのままうつむく。
隣では、いつの間にか悠輝が盛大ないびきをかいて大の字に寝ていた。
🦋 🦋 🦋
次の日、陳盛の使いの者が宿を訪れた。わざわざ馬車で迎えに来たというのだ。
「あのね、わたしたち三人で〈飛天護〉って名前にしようと思うんだ」
馬車の中で揺られながら、恬珂が目を輝かせている。なんのことかわからず、華婉と悠輝は顔を見合わせる。
「いつまでも〈女鏢師たち〉って呼ばれてるの嫌でしょ? だからね、わたしが考えたんだよ。全員、飛っていう字が異名についてるし、人を護る仕事だから〈飛天護〉」
「うん、銀飛蝶、飛燕脚……あれ、恬珂は?」
華婉に悠輝。たしかに異名には飛の文字が入っている。だが、恬珂には異名すらないはずだ。
「わたしはね、飛旋龍。飛旋っていうのはね、得意な棒法の技からとったの。龍ってのは縁起が良いし、かっこいいからなんだよ。……どうかな?」
明らかに名前負けしている感があるし、龍といえば……項家荘で出会ったあの龍の男を思い出してしまう。
しばらくうーん、と考えたあと、華婉はいいんじゃないか、と微笑んだ。
陳盛の屋敷は台恵の城市から馬車で二日ほどのところにあった。
広大な敷地に、魯進の宿の十倍はあろう大きな屋敷。屋敷の通路にはめずらしい調度品が並べられ、以前台恵の店で壺を割ったことのある華婉は、少々居心地が悪かった。
華婉たちが驚いたのは、その護衛の数である。屋敷の外から中にかけて、武装した兵士たちが直立していた。総勢で二百はくだらないだろう。
「随分と物々しいな」
「これじゃあ、おれたちの出番はねえな」
「いいことだよ。楽な仕事だってことだよね」
華婉、悠輝、恬珂の順に感想を述べる。
渡来品と思われる絨毯が敷き詰められた豪奢な一室に案内され、陳盛に会った。どこぞの地主のように丸々と太っているだろう、と華婉は勝手に想像していた。金持ちや権力者にはそういった印象がある。
しかし、意外にも陳盛という男は痩せた小柄な男だった。眼が細く、前歯が出っ張っているので恬珂が鼠に似てる、と耳打ちしてきた。
「おまえたちが噂の鏢師たちか。相当に腕が立つとの話だが……本当に女だけとはな。まあ、いい。おまえたちの役目は、わたしのそばから離れぬこと。それだけだ。何か質問はあるか?」
横柄な態度と人に指図するのに慣れている口ぶり。これはまあ共通している。
「あのう、そばから離れないってことは、食事のときも寝るときも?」
「そういうことだな」
恬珂が遠慮がちに質問し、陳盛はそっけなく答えた。
「相手は? どんなやつがあんたを狙ってやがるんだ?」
「……それがわからんのだ。同僚が殺されたときも護衛は大勢いた。いたにもかかわらず犯人の姿をはっきりと見た者はなく、同僚の死体も消えてしまったという。こんな真似ができるのは相当な武芸の達人以外には考えられん。だからおまえたちのような実戦慣れした武芸者を護衛に頼んだのだ」
悠輝の無礼な物言いにやや顔をしかめたが、陳盛はその質問にも答えた。
そのまま三人は陳盛の部屋の中で過ごすことになった。
陳盛本人はのんびり書を読んだり昼寝をしたりと、部屋の中から外に出ようとはしなかった。退屈なのは華婉たちで、特に悠輝や恬珂はいらいらしているようだった。
「ねえ、陳盛さん」
「なんだ」
「ちょっとね、外にでも出て散歩してみたらどうかな。部屋の中にずっといても退屈でしょ。外の空気をいっぱい吸ってさ、気分転換したらどうかなって」
たまりかねて恬珂が陳盛を外へと誘う。しかし陳盛は自分の机から離れようとしなかった。
「冗談じゃない。わたしの同僚は三人とも屋外で殺されている。わたしに死ねと言っているのか」
「…………」
恬珂は頬を膨らませて黙り込んだ。それを見て悠輝も外に出るのを諦めたようだ。
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