山の入り口。立て札があったのですぐにわかった。『所有者の許可なく立ち入ることをかたく禁ずる』と書かれている。おそらく村民が山菜を取ったりするのも禁じられているのだろう。
「……くだらない」
そう言って華婉は立て札を踏み倒した。やはりあの地主は好きになれない(見た目が特に)。依頼人でなければ、この立て札と同じように踏み倒してやりたかった。
山へと足を踏み入れると、すぐに刺すような殺気を感じ取った。――飛燕脚。それなりに骨のある相手らしい。こちらも気配を消すような真似はしない。
山道を歩くうち、どこか還界山に似ていると思った。ゆるやかな傾斜で岩場が少ない。
密集した枝葉に陽光が遮られた、薄暗い道にさしかかった。襲ってくるのならこういう場所かと警戒したが、その気配はまだ遠い。
枝葉の洞窟のような道を抜けると、岩壁が待ち構えていた。岩壁沿いに歩いていくと、今度は本物の洞窟を見つける。元は虎か熊の巣穴かもしれない。
「飛燕脚……ここにいるな」
躊躇せず踏み入る。奥に進むにつれ、少しづつ上に登っていくような感覚だった。
入り口から入る光が足首までしか届かなくなった。この奥はさすがの華婉でもためらうほどの闇。人が暮らしているなら明かりがあるはず、と期待していたのだが。
少しづつ目を慣らしながら進むほかない。湿っぽい洞窟の壁に触れながら歩いて行くと、何かがつま先に当たった。乾いた金属音が洞窟内に反響する。
「…………」
手さぐりでそれをさがし、拾い上げる。
鍋のようだ。獣肉でも煮たのか、やけに生臭い。
ざざざざざっ。
奥の暗がりから音。何かが近づいてくる。華婉は長剣に手をかけ、目を凝らす。
(飛燕脚か)
見えない。が、洞窟内に響く獣のような咆哮。
「うううぉらああっ」
すべて音で判断するしかない。間合いを計り、抜いた長剣で斬りつける。
――ぶんっ。長剣は空を切り、手首に激痛。
長剣を取り落とす。地に落ちた直後、蹴り飛ばされたような音。
いまの攻撃からして徒手空拳のようだが、相手は待ち構えていただけあってこの闇の中でもある程度見えている。同じ素手とはいえ、その点では華婉は不利だ。
「しいぃあっ」
かけ声と地を蹴って跳躍する音。とっさに身構える。斜め前方からまた音、そして右肩に衝撃。たまらず倒れた。
「いまのは――」
飛燕絶襲。三角飛びで死角から蹴りを放つ、還界派の技だ。それをなぜ飛燕脚が――。
考えている場合ではない。右肩の痛みに耐えつつ、地面を転がって半身を起こす。顔面に風が迫った。
地に着いた左手を軸にして旋回。頬を飛燕脚の攻撃がかすめ、華婉は右袖をからませた。
腕か足に巻きついた袖が、ものすごい力で引っ張られる。その力に逆らわず華婉は飛燕脚に抱きつき、足を払った。
「はなせっ」
もつれるように倒れ、ごろごろと洞窟内を転がる。出口のほうへ向かっているのは華婉の思惑通りだ。
目に飛び込んでくる外の光。痛いと感じるほどに眩しい。これは飛燕脚も同じはずだ。
突き飛ばすような勢いで両者は離れ、華婉は何かを踏んづけた。――長剣。拾いあげる動作から突進し、わき腹のあたりに叩きつけた。だが、平の部分で。
「――っ!」
飛燕脚は声をあげることもできず、うずくまる。
外の光にようやく目が慣れてきた。華婉は長剣を鞘に収め、飛燕脚に問いかける。
「やはりおまえか。こんなところで何をしている」
赤みがかった短い髪。驚いて見開かれた鳶色の瞳。
飛燕脚の正体は一年前、泰来へと旅立った霍悠輝だった。
「な、なんで婉姐がここに?」
「それはこっちが訊きたい。いつ泰来から帰ってきたんだ?」
「おれは……ひと月前に帰ってきたばかりなんだ」
「どうしてこんなところで山賊の真似なんかしている?」
「おれは山賊なんかじゃない! 帰ってきたけど、行くあてがないからここで狩りをしながら暮らそうとしたんだ。それをあの野郎が……地主のやつが人を雇って無理やり追い出そうとしたんだ」
「行くあてがない? どうしてわたしや恬珂に会おうとしないんだ」
「それは……」
じゃらり、と首からさげている白い飾りが揺れた。悠輝は大事そうにそれをぎゅっと握りしめる。
「泰来で……何かあったのか?」
どこか悠輝らしくない。そう感じた華婉が訊くと、悠輝はうつむいて口を閉ざした。
「言いたくなければ、言わなくていい。だが山は下りてもらうぞ」
「あの地主に雇われたのか、婉姐?」
悠輝が顔を上げ、不快そうな表情を見せた。
「そういうことだ。ほら、行くぞ」
手をつかんで促すが、悠輝はそれを振りほどいた。
「いやだ。おれのことはもう、ほうっておいてくれ。一人になりたいんだ」
腕組みをしてその場に座り込んだ。華婉はその隣に腰を下ろす。
「本当にどうしたんだ? おまえらしくない。悩みがあるんだったら話してみろ。何か力になってやれるかもしれない」
こういうふうに師妹たちの相談に乗るのは周渓の役目だった。しかし、あの美しくて頼りになる師姐は――もういない。
「……結局、何もわからなかった。おれが彰人か泰来人かなんて」
「おまえはおまえだ。わたしも恬珂も気にしていない」
「でも、わかったこともある。泰来人って、野蛮だとか凶暴だとかいわれてるけど、おれが世話になった集落の人たちは本当にいい人ばかりだった。そしてあの人たちも馬賊の被害に苦しんでいたんだ」
「同じ泰来人なのにか?」
これは意外だった。泰来から侵入し、彰だけで暴れまわっていると思っていた。
「ああ。彰と泰来で講和したときに、それに反対した連中が国を離反して馬賊になったらしい。そいつらは北人だろうと南人だろうと関係なく襲う」
北人とは泰来人のことで、南人とは彰人のことである。これは泰来人が好んで使う言葉なので、少々違和感があった。
「狩りや放牧……。おれもその集落で手伝ったんだ。みんな、よそ者のおれにすごくよくしてくれたよ。おれ、家族っての知らないけど、あんなのが家族っていうんだろうな」
悠輝も孤児だった。章間の近くで行き倒れていた女性。その胸に抱かれていた赤ん坊を、還界派が引き取ったのだ。
「でも、あいつらが襲ってきたんだ。あのくそ野郎どもが」
「馬賊か」
「ああ。そこの集落は、馬賊に貢物を差し出して襲われないように約束していたんだ。それなのに……」
悠輝は歯ぎしりしながら、首飾りを握り締めた。
「それは?」
華婉が首飾りのことを訊くと、悠輝は目を閉じ、呻くように言った。
「これは……もらったんだ。梨紅って女の子に。おれによくなついていた。狼の牙を渡すのは信頼の証だって……でも、でもおれはあの子を護れなかった!」
「…………」
「みんな武器を取って戦ったけど、相手は大勢で……殺されちまった。おれは梨紅を連れて逃げるのが精一杯だった。でも、あの子も矢傷がもとで……」
地獄のような光景を目の当たりにしたのだろう。項家荘出身の華婉や恬珂もそれは同じだが、実際の虐殺の様子は見ていない。
「だったら、仇を取らないとな。わたしと一緒に用心棒の仕事をすれば、馬賊と思う存分戦うことができる」
悠輝が目を開いた。その鳶色の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちてくる。
「おれに……おれに人を護る仕事が務まるわけない! 女の子一人、護ることができなかったんだぜ」
拳を地面に打ちつけた。ずしり、と音を立てて手首のあたりまで埋まる。
「悠輝。わたしはそうは思わない。おまえは一年前に比べてずっと強くなった。泰来を出てからも鍛えていたんじゃないのか? 馬賊を倒すために」
華婉は立ち上がった。ここまで言って駄目なら仕方がない。
「わたしはもう行く。悠輝、わたしは戦うことぐらいしかできない。どうせ戦うなら、人を守ることができたらいいと思って鏢師になった。おまえが一緒に来てくれればよかったんだが」
悠輝は答えなかった。組んだ腕に顔をうずめ、肩を震わせていた。
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