まだ薄暗かった。悠輝が歩きながら何度もあくびをしている。
明るくなる頃には目的地に着くだろう。そう思いながら、還界山のほうを振り返った。
緩やかな稜線が左右に広がる山々に隠れ、もうその姿は見えない。華婉はふと洪永のことが気になった。
「華婉、どうかしましたか?」
周渓が心配しながら訊いてくる。華婉は首を横に振りながらなんでもないと答えた。
切り立った崖のそばに項家荘はあった。村の周りには埋められた堀や壊された柵など、十年前の馬賊との戦いの跡がいまだに残っている。華婉と恬珂はそれを見てしばらく動けなかった。
かつて項家荘には強力な自警団が存在していた。村の若い者や金銭で雇われた武芸者で形成されたものだが、何度も馬賊を撃退していた。
それを指揮していたのは華婉の父、華翔だった。元々は泰来との戦で活躍した傭兵。彰と泰来が講和してからは、この村で用心棒として雇われた。
華翔の卓抜した指揮。村民たちの団結。村を取り囲む天然の要害。加えて、還界山とも近い。いざとなったら連携して馬賊と戦えるのだ。誰もがこの村が滅びるとは思っていなかった。
しかしそのような村だからこそ、好戦的な馬賊に執拗に狙われたのかもしれない。
十年前、どこから湧いて出たのか、馬賊たちが千以上の騎兵で村を襲撃した。それまでは多くても百を越えることはなかったのに。
昼夜を問わず攻め立てる馬賊。相当な犠牲が出ているにもかかわらず、何度も何度も押し寄せてきた。
還界派から救援のために三百の門弟が派遣された。しかし、途中で馬賊の別働隊に行く手を阻まれた。
北威討寇軍の〈迅騎〉は他州の馬賊を追撃中だった。急反転し、項家荘に向かうものの五日はかかる。石州の刺吏は馬賊に恐れをなして城に立て籠もる有様。項家荘は完全に孤立した。
三日後、奮戦むなしく項家荘は陥落。村民はことごとく皆殺し。金品や家畜は強奪され、家屋には火が放たれた。
還界派の門弟たちが項家荘に着いたとき、すでに馬賊は去ったあとだった。残されていたのは、馬賊と村民の死体の山。黒焦げになった家屋の残骸。
門弟たちは残骸の下でかろうじて息のある女性を発見する。女性は自分が倒れていた地面の下に仕掛けがあると言い残し、息絶えた。門弟たちが言われたとおりに調べると、そこには隠し扉があった。
扉を開ける。地下に作られたその縦穴には、十数人の子供たちが震えながら身を寄せ合っていた。
その中に華婉と恬珂、洪永がいた。隠し扉の上で倒れていたのは華婉の母、史青英だった。父の華翔は死体すら見つかっていない。
華婉たち三人以外の子供は、他の城市や村の親戚に引き取られた。華婉たちには行くあてがない。還界派に入るよう勧めたのは、白い髭を生やした男、高元真だった。
「華婉。気分が悪いのなら、どこかで休みましょうか?」
周渓の気づかうような声。荒れ果てた村の中を歩いていると、やはりあのときのことを思い出す。華婉はうつむきながら首を振った。
「どこにも馬賊なんていねえぞ。大勢いるんだったら、村に入る前からわかる。少ない人数でもいた跡ぐらいは残ってるはずだよな」
悠輝がいらだった様子で、瓦礫の一部を蹴りとばす。周渓も首をかしげた。
「たしかに……しかし村の中はかなりの広さですから、すべて見回るまで油断はできません」
「周姐、それなら二手に分かれるか」
華婉が提案する。とりあえず危険はなさそうだからだ。こんな任務から早く解放されたいという気持ちもある。
「では、わたしと恬珂、華婉と悠輝に分かれて探索。集合場所は村の広場にしましょう。万が一、馬賊を見つけても勝手に戦わないこと。いいですか、華婉」
「わかってる」
自分が一番、血の気が多いと思われているらしい。たしかにこんなところで馬賊に遭遇したら、平静でいられるかわからない。
周渓は恬珂を連れ、北のほうを調べに行った。
恬珂はこの村に着いたときから一言も喋っていない。そのことが少し気になった。
悠輝とともに、南側を探索する。目に入るのは、壊れた石壁や真っ黒な家屋の残骸。やはり人の気配はどこにもなかった。
「周姐のほうも、多分何もないだろうな」
うんざりしたように悠輝がつぶやく。華婉はそれに答える気にもならなかった。
――ふいに背中を冷たいものが走った。かすかだが、感じる。村の中ではない。外から、じわじわと押し寄せてくるような殺気。
「婉姐?」
華婉の険しい表情に、悠輝が不安そうな声。
「悠輝、敵だ」
短く言って、壊れた石壁の陰へ引っ張る。
「馬賊か?」
「いや、違う。やつらは騎兵で派手に襲ってくる。だがいま感じるのは、影のような捉えどころのない何かだ」
「よくわかんねえな」
「周姐たちが心配だ。合流するぞ」
言って、石壁の陰から飛び出した。
北のほうへ飛ぶように走った。悠輝も必死についてきている。
走りながら二人をさがした。見当たらない。このまま進めば、この先は崖だ。
「婉姐、あれ!」
悠輝が何かに気づいた。
朽ちた樹の根元に、誰かがうつ伏せに倒れている。華婉は一瞬、血の気が引いた。
――恬珂だった。駆け寄って抱え起こす。呼びかけるが、目は閉じたままで返事もない。
「婉姐、まさか……」
悠輝が青ざめた顔で訊く。華婉はふう、と軽く息を吐いた。
「気を失っているだけだ。外傷はない。まったく、こいつはいつも人を心配させる」
「周姐はどこ行ったんだ? 婉姐、早くさがそうぜ」
「わたしがさがしてくる。おまえは恬珂を身を隠せるような場所に運んでくれ。何かあったら、おまえがを守るんだぞ」
「わかってるけどよ、婉姐も気をつけろよ。なんか嫌な感じがする」
二人を残し、華婉は再び北に向かって走った。もうじき崖に着くはずだ。
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