夜の山道。うっすらとした月明かりを頼りに、霍悠輝は背丈以上もある草むらをかきわけながら進んでいく。
目指すは還界山〈桃花〉師範代・李慧の屋敷。こんな時間に門弟はうろついていないだろうが、念のために自分しか知らない道を選んだ。
(狩りをしていた経験がこんなとこで役に立つとはな。この獣道を通るのも久しぶりだ)
急斜面の坂をよじ登り、様子をうかがう。
――見えた。李慧の屋敷。灯りがついている。
(こんな時間に?)
疑問を覚えたが、それより先に身体が動いていた。柵を越え、裏口の扉に近づく。
そこでぎょっとして立ち止まった。扉のそば。誰かが立っている。
とっさに身構えたが、相手は壁に寄りかかった状態でうつむき、動かない。悠輝の存在に気づいていないようだ。というより――居眠りしている。
(見張りか?)
そっと近づいて顔を確認する。げ、と声をあげそうになって口を押さえた。よく知っている顔。恬珂の兄、楊洪永だ。
「…………」
このまま無視して屋敷内に進入しようとしたが、あとで見つかって騒がれたでもしたら面倒だ。いざとなれば当て身で気を失わせればいい。
「おい、何やってんだ。おまえ」
小声で呼びかけ、頭を小突く。はっと目を覚ました洪永はきょろきょろと辺りを見渡し、ようやく悠輝に気づいた。あいかわらず鈍くさい。
「う、え、ええっ? ――むがっ」
大声を出しそうだったので片手で頬を挟んだ。ずいぶん間抜けな顔になったが、同情している場合ではない。
「おい、騒ぐなよ。騒いだらぶん殴るぞ」
脅して手に力を込める。洪永はますます間抜けな顔になり、うんうんと小刻みに頷いた。
「なんでおまえがここにいる? 李師範代のほかに誰かいるのか?」
手を放し、問いただす。洪永は涙目で答えた。
「こ、高師兄が来ているんだ。おれはここまでついてきて、もし誰か来たら知らせろって言われてて……」
「高師兄? 三人のうちのどいつだ」
「高師範代だ。どんな用なのかは、おれも知らない」
「長男の継山だな。まあいいや。おまえはここでじっとしてろ。おれは中に入る」
そのまま裏口から入ろうとしたが、うっとおしく洪永がついてくる。
「ま、待ってくれよ。恬珂と華婉はどうしたんだよ。おまえたち、項家荘に行っていたんじゃないのか」
「……いろんな事情があってだな、ここへは戻ってこれない。おれの報告待ちってところだな。だから邪魔すんな」
拳骨を振り上げて追っ払う。いまの説明で納得はしていないだろうが、長く話し込んでいる暇はない。
屋敷内へ進入。通路を慎重に進みながら李慧の部屋までたどりつく。扉を少しだけ開け、中を覗いたが――無人。
ふいに人の話し声。心臓がはね上がったが、向かいの客間からのものだと気づく。
悠輝はそっと近づき、扉に耳を押し当てて会話を聞き取ろうとする。
「……あのような……怖ろしい……追放……」
声が震えていて内容まではわからない。李慧の声であることはたしかなのだが。
「あなたはいつもどおりの態度で接してくれればいい。始末するのはこちらでおこなう。まあ、おめおめと戻ってきた場合の話だが」
今度は男の声。これははっきりと聞こえた。高継山だ。
始末、という言葉が聞こえ、悠輝は拳を握りしめる。やはりこいつが黒幕か。
(このまま踏み込んでぶちのめすか)
不意を突けばできないことではない。だがもう少し核心に触れる内容を聞いてみたい。たとえば第三班を狙った理由とか――。
わずかな沈黙のあと、継山は声を沈めて話し出した。何か重要なことを言っているのか。
(婉姐だったら聞こえるんだろうけどな)
聴力も視力もずば抜けている華婉。いまはとある村の宿で安静にしており、恬珂が付添っている。
項家荘で出会った〈迅騎〉の武官、岳翅雄。翅雄は還界山まで送ると言ってくれたのだが、華婉はそれを丁重に断った。
悠輝がその理由を訊くと、項家荘で襲ってきた連中は還界派の門弟かもしれない、と華婉は語った。いまにも気を失いそうな青白い顔で。
自らそれを確かめに還界山まで乗り込む、とまで言い出したので慌てて止めた。
右腕を切り落としてからまだ二日も経っていない。無理できる身体でないのは本人が一番わかっているはずだ。
そこで聞き分けのない師姐のことを恬珂にまかせ、悠輝が代わりに行くことにした。
あの襲撃に還界派が関わっているのなら正面、そして〈鉸龍〉のほうへ行くのは危険だ。だから夜中に〈桃花〉へ忍び込むことにした。師範代の李慧なら必ず何かを知っているはず。そこに洪永と継山がいたのは予想外だったが。
(もう少しで聞こえそうなんだけどな)
悠輝は少しだけ扉を開けようと手を伸ばし――。
「うおっ」
扉の隙間から何かが飛び出し、頬をかすめた。
避けた状態から側転し、悠輝は扉から離れる。
鈍い光りを放つ剣先。吸い込まれるように引っ込み、扉が蹴破られた。部屋の中から姿を現したのは――。
「てっめえ、継山」
「師兄と呼べ、無礼者」
掌門・高元真の長子であり、〈鉸龍〉の師範代・高継山。手に長剣をぎらつかせ、憤怒の表情。その背後で李慧の姿がちらりと見えたが、すぐに部屋の奥へと消えた。
「へっ。お楽しみの最中だったのに悪ぃな」
話をしていただけなのは知っていたが、揶揄せずにはいられなかった。元々この二人は好きではない。
「下衆な想像を勝手にするな。貴様らが戻ってきた場合の対処を李師範代と話し合っていたのだ。まさか盗人のような真似をして忍び込んでくるとはな……」
「ってことは、婉姐の予想どおりか。あの覆面どもはおまえの命令で」
「それ以上知りたがると……せっかく助かった命を失うことになるぞ」
言い終わらぬうちに斬りかかってきた。飛び退いてかわし、悠輝は思いきり舌を出した。
「ばーか。それさえわかりゃ用はねえんだよ。こんなとこ、二度と戻ってくるもんか」
「うぬっ、北人の子が」
激昂した継山が刺突を繰り出してきたが、相手にするつもりはない。飛び退いてかわし、背を向けて脱兎のごとく逃げ出した。
外に出たところで、うろうろしていた洪永にぶつかりそうになる。
(一緒に連れて逃げるか?)
一瞬、そういう考えが頭に浮かんだ。
もう悠輝たちは還界派には戻れない。つまり恬珂は以前のように洪永に会えなくなる。それに洪永は悠輝たちの仲間と見なされ、なんらかの迫害を受けるかもしれない。
(やっぱ、めんどくせえ)
そういう結論に達した。どう考えても足手まといにしかならない。恬珂には悪いが、殺されるようなことはないだろう。たぶん。
「邪魔っ、どけっ!」
吼えるように怒鳴ると洪永は頭を抱えてうずくまる。それを飛び越え、転がるようにして山を下りた。あとを追ってくる様子はない。
「あいつらの仕業だってことはわかったけどよ。これからどうすんだよ婉姐……」
走りながらつぶやく。もう自分たちに帰る場所などない。
滅多なことでは落ち込まない悠輝だが、さすがに不安になる。追い打ちをかけるようにその耳には「北人の子」という継山の言葉が何回もこだましていた。
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