華婉が目を覚ましたとき、周りの景色は一変していた。白い布で覆われた四角い空間。
燭台の灯りが揺れながら辺りを照らしている。もう夜だということか。
寝台の上に寝かされている。背中の感触でそれはわかった。
上体を起こそうとして、ずきりと右腕が痛んだ。見れば、肘よりやや上のあたり。そこから先がなくなっている。
(────ああ、そうだった)
現実を受け止めるのにそう時間はかからなかった。着替えるときや髪を束ねるとき不便そうだな。慣れないうちは恬珂に手伝ってもらおう。そんなことを考えながら目を閉じた。
しばらくして目を開け、もう一度右腕を見る。
包帯がしっかりと巻かれていた。血はすでに止まっているようだ。痛みをこらえてなんとか上体を起こす。
「……生きてる」
それだけ言って、ひどく喉が渇いていることに気づいた。燭台の置かれている机に水の入った椀があった。それを左手でつかみ、口の中に流し込んだ。
身体中に染み渡る。潤いと生きている実感。生きてる、ともう一度つぶやいたとき、出入り口らしいところの布がばさりと開いた。
「あっ、婉姐が起きてる! ほら、霍姐」
「見りゃわかる。言ってただろう、大丈夫だって」
「婉姐ーっ!」
恬珂が抱きついてきた。ほうずりしながら涙を流している。
「よかった、婉姐。し、死んじゃうかと思ったんだよ。でもね、〈迅騎〉の岳翅雄って人が助けてくれたの。治療も〈迅騎〉の人がやってくれたんだよ。その人は大丈夫だって言ってたけどね、わたし、もう目を覚まさないんじゃないかって」
「わかった、わかったから、離れろ。ほら、鼻水がつく」
泣きじゃくる恬珂を引きはがし、華婉は悠輝に訊いた。
「悠輝、どういうことだ? 〈迅騎〉?」
「ああ。おれが婉姐の腕を切ってすぐに、〈迅騎〉の一隊が急に現れたんだ。それで、事情を話したら婉姐をこの幕舎まで運んで治療してくれたんだ」
そこまで言ったとき、再び誰かが入ってきた。
薄暗い中でもはっきりとわかる、白衣銀甲の出で立ち。そしてその顔。年齢は華婉と同じぐらいだろうか。美丈夫とはこういう男のことを言うのだろうと思うほど、凛々しく、整った顔立ちだった。
「気がつかれたようですね。わたしは〈迅騎〉所属の岳翅雄と申します。兵の調練の途中、ここで野営の準備をしていたときにあなた方を発見したのです」
官軍の将らしい立派な外見とは裏腹に随分と丁寧な話し方だ。華婉は少し間を置いてその名に反応した。
「岳翅雄――あの小武神の」
岳家といえば代々優秀な武官を輩出していることで有名な名家。その出身でありながら中央を離れ、僻地であるこの石州に赴任したという男の噂を聞いたことがある。
公子のような容姿と立ち振る舞いだが馬賊との戦いでは数々の戦功を挙げ、〈迅騎〉の隊長である張将軍が武神と呼ばれていたこともあって、翅雄にも小武神の異名がついたという。
「事情は聞きました。還界派の方々で、村に潜んでいる馬賊をさがしていたとか」
「ああ。だが、馬賊はいなかった。かわりに変なやつらに襲われた」
「兵たちにこの村を調べさせましたが、あなた方以外は誰もいませんでした。とうに逃げ出したのでしょう」
「……だろうな。とにかく、礼を言う。岳将軍」
「将軍はやめてください。いまはまだ一武官にすぎません。翅雄で結構です」
はにかみながら言い、翅雄は小さくなる。悠輝が思い出したように訊く。
「たしか、〈迅騎〉の頭って還界派の出身だったよな」
「はい、張将軍です。だから〈迅騎〉と還界派は盟軍のような関係なのです」
ここで恬珂が間に割り込む。
「ねえ、周姐さまは? わたし一緒にいたんだけど、あの顔を隠したやつらに襲われたんだ。それでわたしも戦ったんだけど、いつの間にか気を失ったみたい」
「多分、周姐が当身で気絶させたんだろう。あの龍の頭、ただものじゃなかった。おれが不意打ちで蹴り飛ばしたときもぎりぎりで防御されたしな。このままおまえが戦うには危険だと思ったんだろ」
それに答えたのは悠輝だった。いつもは見せない重苦しい表情。周渓が死んだことを感づいているかもしれない。
「周姐さま……わたしだってちゃんと戦えるのに。文句言ってやらなきゃ。ねえ、婉姐。周姐さまはどこにいるの?」
「…………」
答えるべきかわからなかった。なにせ、わけのわからないことが多すぎる。華婉自身、いままでのことが夢だったように思える。
「わたしは外にいますから、何かあったら呼んでください」
気を利かせたのか、翅雄は幕舎から出て行った。
三人だけになり、幕舎の中は静まり返る。
その雰囲気に耐えられないのか、寝台に乗り出すように再び恬珂が訊いてくる。
「ねえったら。周姐さまはどこなの? 婉姐、知ってるよね」
「……周姐は……死んだ」
華婉がぼそりとつぶやくように言った。恬珂がまさか、と聞き流す。
「あのねえ、周姐さまが死ぬわけないよ。風舞清流の剣って呼ばれるほどの技の持ち主なんだから。周姐さまが防御に専念したら、わたしが十人いたって一本取れないよ。きっと」
たしかに覆面集団の攻撃を巧みにかわしていた。だがそのあとに見せたやつらの動き。まさしく五人一体の剣陣、五龍咬陣だった。あの剣陣を見て、周渓は何を考えただろうか。
悠輝は黙ったままだ。恬珂が不安そうに視線を動かす。
華婉のきつく握った左手。その上にぽたりと一粒の涙がこぼれ落ちる。それを見て、恬珂が膝から崩れ落ちた。
「うそ……周姐さまが……本当に」
しばらく茫然としていたが、突然寝台に突っ伏し、大声で泣き出した。
華婉も悠輝も、その場でみじろぎもしなかった。拳を握りしめ、声をあげて泣きたいのをこらえるしかなかった。
🦋 🦋 🦋
「しくじったようだな。五人でも多すぎると思ったのだが」
寝台の上で高元真が胸を押さえながら言った。高継山は小さくはっ、としか答えられなかった。
〈百面〉が失敗するとは夢にも思わなかった。常に四人一組で行動する〈桃花〉の一人を暗殺するとなれば、他の三人に目撃される可能性が高い。
あの場所で馬賊の仕業に見せかけ、四人もろとも始末させるつもりだった。その作戦を考え、指示した継山はなんらかの叱責――いや、懲罰を受けることは覚悟していた。
しかし意外にも、元真は責めるようなことを言わなかった。
「よい。予想外なことが重なりすぎた。やつらが二手に分かれていたこと。最初に遭遇したのが華婉ではなかったこと。それに……周渓が執拗なほどに〈百面〉の邪魔をしたこと」
「それはたしかに意外でした。あの一件以来、抜け殻のようになり、いまでも黙々と班長としての責務をこなすだけだと聞いていたのですが……」
「やはり女、ということか。いくら冷血非情を装っていても土壇場で情に流される。あの時と同じだ」
「……生死は不明とのことですが、あの崖から落ちたのであれば生きてはいないでしょう」
ついでのように付け足すと、元真はうむ、と頷く。
「邪魔といえば〈迅騎〉が突然現れたことか。あれが極めつけだな」
「あの付近で調練をしていたという話ですが」
「らしいな。だが、わしから冷起には何も言えぬ。あやつとて〈百面〉の行動を逐一知っておるわけではないからな」
冷起というのは〈迅騎〉隊長の張将軍のことだ。還界派出身の武人は多いが、その出世頭といったところか。
〈百面〉は還界派開祖の彭延と崔珠によって作られた影の集団で、その存在はごく一部の者しか知らない。還界派創設時から存在し、ある目的を理由に暗躍している。〈鉸龍〉や〈桃花〉はそれを隠すための偽装といっても過言ではない。
しかし、継山の曽祖父が掌門となってからはその性質が変わってきたらしいのだ。高一族の地位をおびやかす者を排除し、還界派を凌ぐ門派の力を削ぐ。いわば高一族の利のために使われるようになってきた。
(もしや、以前から同じようなことを?)
華婉を〈百面〉によって始末する。父はそれを何の躊躇もせずに命じた。本来、〈百面〉はそのような権勢欲のために使われるものではない。
「それで華婉の件ですが。傷が癒えれば帰還してくると思います」
「そのことだが……〈百面〉が還界派の技を使ったところをやつに目撃されたかもしれんと言うのだ」
「それでは、われらの指示と感づかれるのでは?」
「知ったところでどうにもならん。〈百面〉の実体をつかむことなど不可能だ。戻ってこないのならそれに越したことはない。もし戻ってきた場合は……わかっているな」
覆面の集団が還界派の刺客。それに気づいたのなら戻ってくるはずはない。この時点で華婉が掌門の座に就くことはなくなった。それに気づかず、戻ってきたとしても殺す機会はいくらでもあるというのだ。
「では、このまま放置するということですか」
「うむ。〈百面〉も早々に本来の任務へと戻しておきたいのでな」
そう言うと元真はゆっくりと目を閉じた。最近、長く話していると疲れるようだ。継山が思っているよりもずっと早く病は進行しているのかもしれない。
継山には何か引っかかることがあった。
華婉たちが〈百面〉との戦いで生き延びた。しかも、還界派の技を使ったところを見られかもしれない。そして〈迅騎〉と接触。あれは偶然だったのか。
(たしかに華婉たちが他人に話したところで誰も信用しない。闇に潜むような集団〈百面〉。その実態はもちろん、痕跡すらつかむのは不可能だろう。しかし――)
――途中で継山は考えるのをやめた。
もう終わったことだ。華婉は還界派から追放されたも同然。次期掌門の座は自分のものなのだ。
元真はいつの間にか眠っている。継山は布団を胸までかけてやり、軽く一礼してから部屋を出た。
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