華婉は山を下りた。仕事は失敗だ。それより、せっかく再会した悠輝に何もしてやることができなかった。
自分はやはり周渓のようにはいかない。気落ちした表情のまま、地主の屋敷へと戻った。
「おや、銀飛蝶どの。一日で飛燕脚を倒すのではなかったのか?」
承勲がにやついている。相変わらずでっぷりとした腹をさすりながら。
「一日で十分、と言ったのはあんただ。これから先、十日以内で仕事が成功したとしても報酬は半分にさせてもらう」
「いや、そのことなんだが……」
華婉は気まずそうに視線を逸らす。
「飛燕脚はわたしの知り合いだった。だから、この仕事からは手を引かせてもらう」
ちらりと承勲の反応をうかがう。唖然としているようだ。だが、その顔が次第に紅潮してくる。
「そうか、貴様は飛燕脚の仲間だったのだな。どうも怪しいと思っていたんだ。やつに頼まれてわたしの様子を探りにきたのだな」
妙な具合に話がこじれた。なんでそうなる、と言おうとしたとき、表が騒がしくなった。
「ひ、飛燕脚だ! やつが山から下りてきやがった!」
表にいた一人が飛び込んでくる。承勲が華婉を指さし、叫んだ。
「やはり貴様が村の中まで手引きしたのだな! おい、こいつは敵だ。殺せ、殺してしまえ!」
そのまま卒倒するのではないかと思うほど、真っ赤な顔で喚く。屋敷の奥や入り口からわらわらと男たちが集まってきた。
「まったく。面倒なことになった」
華婉は首を振って、他人事のようにその様子を見ていた。
後ろの数人が華婉に斬りかかろうとする。突然、天井を突き破って何かが降ってきた。
数人の男たちだった。下にいた仲間にぶつかり、床の上で呻いている。
天井に空いた穴から、赤みがかった髪の女が顔を出した。
「婉姐! おれも、おれも一緒に行く! おれだって、戦うことしかできないから。これ以上、梨紅みたいな子を死なせないためにも戦う!」
「悠輝……」
見上げながら、華婉は微笑んだ。それで十分だった。
承勲がなおも赤い顔で喚いている。男たちが剣や刀を抜き放ち、華婉を取り囲む。
天井の穴から悠輝が飛び降り、華婉と背中合わせになる。それだけで威圧感を与えたようだ。男たちが数歩、後ろに下がった。
しかし悠輝に対してわずかでも怯んだ様子を見せてはいけなかった。
シッ、と短く息を吐いて悠輝が突っ込んでいき、片端から男たちを蹴り倒していく。
華婉は残る連中を剣の平で次々と打ち据えていった。
あっと言う間の出来事だった。もはや立っているのは承勲ただ一人。赤かった顔は完全に青ざめ、あわあわと口が震えていた。ただ、腹だけはまださすっている。治りようのない癖らしい。
「悠輝、この太った地主はどうする?」
華婉自身、別に恨みがあるわけではない。それよりも雇い主を裏切ったと言いふらされるのが心配だった。
悠輝は憤慨した様子で承勲の襟首をつかむと、それを片手で持ち上げた。太った地主はなんだか釣鐘のように見える。
「こいつは役人とつるんで、この村の税を倍にしているそうだぜ。余分にせしめた税は役人と山分けしているとも聞いた」
「ほう、そいつは悪人だな。立場が弱く、逃げ場のない村人から搾り取るとは」
「こいつ、殺しちまったほうがいいな。婉姐」
悠輝が拳を振りあげると、承勲は涙と鼻水を垂れ流しながら許しを請う。
「ひいいっ、許してくれ、いや、許してください。こ、これからは税を半分にしますから。ほ、本当に」
悠輝は振りあげた拳をまだおろさない。
「だめだな。三分の一にしろ」
「えっ、それでは国に収める分が……」
「おまえの収入を削ればなんとでもなるだろう。文句あるのか」
承訓はぶるぶると首を横に振った。
「いえ、いえいえいえいえ。滅相もない。さ、三分の一に致します。約束します」
「ああ。あと、裏の山も村人がいつ入ってもいいよう、開放するんだ」
「は、はい! 必ず」
勢いよく頷く承勲。ここでようやく、悠輝がつかんだ手を離した。
派手に尻餅をついた承勲は、あたふたと屋敷の奥へと逃げていく。
その背に向かって、華婉が追い討ちをかけるように言った。
「いらぬ噂を立てるような真似をしたら、この銀飛蝶と飛燕脚がおまえの首をねじ切りにいくからな。よく覚えておけ」
屋敷の奥から悲鳴にも似た返事が返ってきた。華婉と悠輝は顔を見合わせ、声をあげて笑った。
🦋 🦋 🦋
西家荘を去り、華婉と悠輝は石州の中心城市――台恵へと向かった。
もうじき日も暮れようとしていたときだったので、城市の門が閉まろうとしていた。走りながら悠輝が大声を張り上げたのでなんとか間に合ったが。
華婉は鏢師の仕事が一段落したとき、その城市の宿で待機することに決めていた。仕事の依頼があれば宿の主人が直接伝えにくる。
宿で待機しているときは、宿の用心棒も兼ねている。酔って暴れる客や料金にケチをつける客などがいるためだ。そのため、宿代はタダに等しい。
宿へ入ると人の良さそうな中年の男が出迎える。この男が宿の主人の魯進で、華婉は新しい仲間だと悠輝を紹介した。
同じ部屋に泊まると言ったら、魯進は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻ってこう言った。
「いえいえ、そういうわけにはいきません。せっかく若い男女が同じ部屋に泊まるのですから、いままでの部屋では狭すぎます。別の部屋を用意しましょう」
短い沈黙のあと、華婉は吹きだし、悠輝は指をべきべきと鳴らした。
「へえ、おめえ。面白えこと言うじゃねえか」
短い髪に、紅い拳法着のような、丈の短い男物の服装。たしかにこの容姿では男に見間違われても仕方がない。
結局、二人には新しく二階の広い部屋が貸し与えられた。
先ほどのやりとりを思い出して華婉はくすくすと笑った。悠輝はまだいらいらした様子で、部屋の中をぐるぐる回っている。
「そういらつくな悠輝。男に見間違われたせいで、広い部屋に移ることができた」
「まったく、信じられねえ。こんな美人をつかまえて男だと。西家荘の山では山賊扱いだし。最近の男どもの目は腐っていやがる」
悠輝は窓のほうへ近づき、夜空を見上げた。そして突然、あっと声をあげて華婉に詰め寄る。
「そうだ! ずっと訊こうと思って忘れてた。婉姐、恬珂はどうしたんだ? 一緒に鏢師をしてたはずだよな」
「あー、恬珂か」
なるべくこの話題には触れたくない。しかし、避けようのない問題だった。
華婉は簡単にこれまでのいきさつを話した。自分が壺を割り、弁償しなければならなく なったこと。恬珂を人質兼使用人として置いてきたことなど。
「うわ、ひでえなそりゃ」
話を聞いて、悠輝が頭をぼりぼりと掻く。
「だろう? そんなに大事な壺なら、倉にでもしまっておけばいいんだ」
同意すると、悠輝が呆れたように手を横に振った。
「違う、違う。ひどいってのは婉姐のことだって。あいつ、怒ってたろ?」
「怒ってた。……多分」
「やっぱりな。そんじゃ、早いとこ連れ戻してやんないと。金銭は? いま、どれぐらい貯まってんだ?」
華婉は金銭の入った袋を取り出し、中身を見せる。悠輝はそれをのぞきこんで、また頭をぼりぼりと掻いた。
「足りねえな……よっしゃ、おれもいくらか出そう」
悠輝はごそごそと身体中をまさぐりだす。
「あれ? おかしいな。たしかここに……おっ、あった!」
手の平の上には銅銭が三枚。華婉は絶句した。
「それと、これ」
その上に、ちゃりんと何かが落とされた。――きらりと黄金色の光沢を放つ、環。
「これは――」
華婉が目を丸くながらそれを手に取る。どうやら、金製の腕環らしい。細かい装飾が施されており、相当な値打ち物だということは華婉にもわかった。
「へへ、あの地主を吊るし上げたときにちょっとな。いいだろ、これくらい」
「ううむ。足癖だけでなく、手癖も悪かったか」
「こいつがあればなんとか足りるだろ。明日、さっそく恬珂のとこに行ってみようぜ」
「……そうだな」
華婉は頷いたものの、あまり乗り気ではなかった。恬珂を連れ戻したなら、ともに鏢師の仕事をすると言い出すだろう。どうすればいいのか、まだ決断できていなかった。
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