――何かが見えた。崖のそばで激しく動いている。
近づくにつれ、それは人間だとわかった。そう、一人を取り囲み、複数の人間が次々と襲いかかっている。
中央にいるのは周渓だった。囲んでいるのは――それぞれ黒や灰色といった、地味な服装の集団。持っている武器もばらばらだ。奇妙なのは、全員が布切れや面をつけて顔を隠していることだった。
動きから全員が相当な手練だとわかった。
しかし周渓は風舞清流の剣と称されるだけあって、ゆるやかだが無駄のない剣技を見せていた。回転しながら相手の凄絶な攻撃をかわし、受け流している。
さすが周姐。華婉 は走りながら感嘆し、長剣を抜く。間に合った。あそこまで五十歩ほどの距離か。覆面の集団は周渓にかかりきりでまだ気づいていない。
だが次の瞬間、華婉は驚きのあまり立ち止まってしまう。
五人のうちの一人が業を煮やしたように号令を下した。他の四人がすぐさま駆け寄って陣形を組む。
「あの剣陣は――五龍咬陣!」
三人が一直線に並び、残りの二人が左右に分かれる。〈鉸龍〉で一度見たことがある、紛れもない還界派の連携技だ。
「なぜ、あいつらがあの技を」
茫然としながらつぶやいたとき、左右の二人が、斜めへ交差するように周渓へ突っ込んだ。
周渓は回転しつつ、なんとかかわしていた。だが、頭上に一人と正面に二人。すでに肉迫していた。
ばっ、と鮮血が舞う。それが誰のものか、華婉にはわからなかった。だが、周渓の身体がぐらりと傾く。思わず叫んでいた。
覆面の男二人。はじかれたように振り返り、向かってきた。
――ざんっ。
華婉は地面が抉れるほど強く踏み込む。
踏み込みの勢いと腰の回転、腕を振り抜く疾さが長剣に斬撃の力として伝わり、それに巻き込まれた二人は裂けたぼろ切れのように宙を舞う。
それに目もくれず華婉は走った。
――周渓。ゆっくり倒れようとしている。崖のほうへと。
華婉は再び叫んだ。手を伸ばす。目の前に二人、立ちふさがる。憤怒が全身を駆けめぐった。
怒りにまかせて長剣を振り下ろす。正面の一人に剣ではじかれた。かまわず身体ごと突っ込む。
腹に重い衝撃。蹴りをくらったが、怯んではいられない。顔を上げたとき、はっとした。
周渓がいない。地面に倒れてもいない。考えられるのは――。
「あの女は死んだ」
くぐもった男の声。断崖のそばにいる男を見て、華婉はぎょっとした。
さっきは気づかなかったが、男の頭部は龍の頭。正確には龍の頭を模した、極彩色の被り物。
祭りなんかで使うものだ。二人一組で一人は龍の頭部、もう一人は胴と尾を担当して銅鑼と太鼓の音に合わせて踊る衣装の一部。それを被っているのだ。
「攻撃中止。その女の相手はおれがする」
「しかし、頭」
「命令だ。おまえたちは他のやつらをさがし出して始末しろ。それと、死んだ者は首を落として崖下へ捨てておけ」
龍の男が命令すると、残りの二人は手際よくそれを実行した。
死んでいる仲間の首を躊躇せず切り落とし、物でも捨てるように崖のほうへ放り投げて走り去っていった。
「なんなんだ、おまえたちは。周姐は……周姐はどうした」
華婉は目の前の出来事に頭が混乱していた。とにかく周渓の姿を確認しない限りはどうにかなりそうだった。
「言っただろう。あの女は死んだ。この崖から落ちてな。見てみるがいい、この下を。この高さでは助かりようがない」
龍の男が崖下を指さす。どういう仕掛けか、ワニのような上下の顎がかくかくと開閉した。
華婉の長剣が動いた。龍の口を狙って渾身の刺突。だが、下からすくいあげるように剣ではじかれた。びりびりと手が痺れる。
「くっ、……ふざけるな、周姐が死ぬはずはない。あの周姐が」
「だとしたら、なぜ崖下を見ない? 怖いのだろう、あの女の死を認めることが」
被り物ごしに笑っているように見えた。手には短めの剣。ゆらゆらと揺らして挑発している。
「黙れっ!」
袈裟懸けに斬りつけ、薙ぎ払う。それも難なくかわされた。
木と革を張り合わせて作ったであろうその被り物は結構な重量がありそうだし、視界も決して良くはなさそうだ。だが男の動きはきわめて俊敏で正確だ。
――ありえない。自分の剣が、通用しない。平常心を失っているからか。いや、この男が強いからだ。額の汗を拭いながら、華婉は呼吸を整える。
「そうだ。まず、落ち着くことだ。そして構えろ。次はおれの番だからな」
龍の男がゆっくりと近づいてきた。華婉はそれに合わせてじりじりと後退する。
歩調を速め、男が間合いを詰める。華婉も踏み込んだ。
二人の影が激しい音を立てて交錯する。
またもかわされた。華婉は舌打ちし、振り返る。右腕に焼けるような痛み。
――ばかな。相手の剣は、たしかにかいくぐったはず。
長剣を取り落とし、傷口を押さえる。傷は浅いようだが、とにかく痛む。
龍の男。右手の剣が揺れていた。そして左手には――匕首が逆手に握られている。
やられた。右の剣で斬りつけると見せかけ、左に隠し持った匕首で斬られたらしい。華婉の目で捉えられぬほどの早業だった。
「こういう戦い方もある。おまえたちは邪道だと言うだろうが」
「おまえたちは……一体わたしに……わたしたちになんの恨みがある?」
「知る必要はない。おれが言う必要もな。いや、名だけ教えておこうか。おれの名は三叉龍。恨むならこの名を恨め」
三叉龍と名乗った男が剣を振り上げる。しかし、華婉は目を閉じなかった。
正体のわからぬ相手に理由もわからず殺される。だがせめて、その目だけは死ぬ瞬間まで見据えていようと思った。
「――っらあっ!」
視界から突然男の姿が消えた。入れ代わるように目の前へ飛び込んできたのは――悠輝。
「婉姐、大丈夫か」
「右腕を斬られた」
「婉姐ーっ! あの男だね、許さない!」
恬珂も駆けつけてきた。走りながら、取り出した飛刀を三本立て続けに放つ。
片膝をついていた三叉龍はそれを剣で叩き落す。のそりと立ち上がり、吐き捨てるように言った。
「ち、あの二人は何をやっている……まあ、いい。ここは一旦、退いておく。だが忘れるな。ここから生きて出ることはできない」
龍の男は背をむけて走り去っていった。追おうとする恬珂を悠輝が止める。
「婉姐が怪我してる。恬珂、傷口を塞ぐから手伝え」
「う、うん。わかった」
その場に座り込む。傷をよく見るために袖を引き裂き、悠輝と恬珂は言葉を失った。
華婉の右腕。傷口の周辺がどす黒く変色している。大粒の汗を流しながら、華婉は二人に言った。
「やはり毒か。二人に頼みがある」
青ざめた顔で二人は頷く。華婉は深く息を吐いた。
「……腕を断ってくれ。もう、それしかない」
もう、毒を吸い出すとか抉り取るとかいった段階ではない。華婉自身、それがわかっていた。どうせ助からないなら、この方法に賭けてみるしかない。
「婉姐、無理だよ。そんなの」
恬珂が泣きそうな顔で訴える。華婉は悠輝に視線を移す。
「婉姐、だめだ。利き腕だぞ」
「死ぬよりましだ。早くやってくれ。時間がない」
悠輝はごくりと唾を飲み込んだ。そして華婉の目をじっと見つめる。
「婉姐、本当にいいのか」
「ああ、やってくれ」
苦しそうに華婉が言うと、悠輝は立ち上がった。
「恬珂、剣を貸してくれ」
「霍姐、やめようよ。婉姐の腕を切っちゃうなんて」
「婉姐が死んでもいいのか」
「でも、でも……」
「いいからっ! 早くしろ!」
悠輝が怒鳴ると、恬珂はびくっと身体を震わせた。そしておずおずと長剣を差し出す。
「恬珂、止血の用意を頼むぞ。婉姐、本当に切るからな」
「ああ、頼む」
震えながら右腕を伸ばし、拳を握る。かなり感覚が鈍くなっている。
悠輝は長剣を上段に構え、すうっ、と息を吸った。次の瞬間白刃が閃き、見慣れた身体の一部がどさりと地面に落ちた。
耐えられない痛みではない。朦朧とする意識の中で、華婉はそう思った。だが右腕が地面に落ちたとき、身体だけではない、心の部分もどこか一部が欠けたような気がした。
――目の前がどんどん暗くなっていく。悠輝と恬珂の声はまだ聞こえていた。
「恬珂、そこを縛るんだ」
「やってるよ。でも、血が止まんない」
「くそっ、どうすりゃいいんだ」
「婉姐、しっかりして。死なないで」
――雨か。ふと、そう思った。ぽたぽたと頬に落ちてくる水滴。いや、これは恬珂の涙のようだ。
完全に何も見えなくなった。そして、二人の声も次第に遠くなっていった。
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