明夢が部活をやめたがっていた——。
鉛の玉を飲み込んだように、ずしん、と、腹の中に不安な重みを感じた。
どうして急に。なにか部活で嫌なこと……は、いろいろと思い当たるな……。
とにかく話を聞きたいけど、暑い中このまま立ち話をするわけにもいかないだろう。
部室に戻るか? でも、部活終わった直後に二人で戻るのも先生たちに怪しまれる?
いっそ、学校内じゃない方が……。
「えっと……カフェ行く?」
「今日はその、お小遣いあんまり持ってきてないんだぁ。ごめんね〜」
「うっ」
な、なるほど。急に人を誘うと、こういうこともあるらしい。
今日くらいならおごってもいいけど、気を使われそうだよな……。
「時間はある?」
「うん、大丈夫〜」
「……だったら、こっち」
校門を背にして歩き出すと、後ろから明夢が追いかけてくる足音が聞こえた。
おれは彼女がついて来れるように、背後に意識を集中しながらゆっくりめに歩を進めることにした。
………………
…………
……
「ほら」
コンビニのイートイン席で姿勢を正して待つ明夢の目の前に、後ろからパピコの片割れを差し出す。
彼女の手が触れる前にひょいっと持ち上げてみる。
一生懸命に手を伸ばして掴もうとする彼女を見てると、やっぱり犬っぽいなと思う。……立てばいいのに。
アイスを渡して彼女の隣の席に座り、おれもパピコを割ってふたに残ったアイスを吸い出した。
明夢がそれを見て、ふふふ〜、と笑う。
なんだよ、これが正式の食べ方なんだぞ。……知らんけど。
「で。部活やめたいって、急になんで」
冷蔵庫の中のようなコンビニで汗も引いてきたところで。まったりしてしまう前に本題を切り出してみると、彼女の大きな瞳がぱちぱちと羽ばたいた。
「部活やめたいとは言ってないよ〜?」
……んあれ?
さっき深刻な顔でやめたいって言ってた、よな?
だったら何でコンビニでアイス食ってんだ、おれたち。
「あれ? 待って違ったかも。やめたいって言った! でも、部活じゃなくて催眠術のほう〜」
慌てて手を振って弁解する明夢の手元から、アイスが豪快に飛び散っていた。
「催眠術をやめたい?」
「うん〜。毎回、あたしにだけかけてくれるやつだよ〜」
圦本明夢には毎回、会ってすぐに「喋るのが楽しくなる催眠術」をかけている。
それは初めてかけた日から欠かさず、習慣になっていた。
彼女は今は饒舌だけど、朝はにっこりと笑いかけてくるだけで、おれが催眠術をかけるまで一言も話さない。
……いまだに、他人と喋れないのだ。
「あたし、催眠術がなくても喋れるようになりたいよ〜」
「それは、大変殊勝な心がけだと思うけど……」
「うん! でもどうしたらいいのかな〜?」
「……自分的に、かけなくても喋れそうな感覚はある?」
「あんまり自信ない〜」
途端に明夢はしょんぼりとしてしまう。
こっちがいじめているみたいでバツが悪い……。
「そもそも、どうして喋れないんだ? 子どもの頃からってわけじゃないんだろ?」
「んとぉ、前は大丈夫だったよ。人間関係なのかなぁ〜。喋るのが怖いって思っちゃったから……」
彼女は入学当初から喋っている印象はないから、その前の、おれの知らない時代に原因があるんだろう。
理由の大本はこの際、いいとして。
だったら、もしかしたら……。
「おれ相手なら、別にもう怖くないのでは」
「えっ! そう、かなぁ?」
「いつもよく喋ってるし」
「それは、催眠術だから〜」
「それも明夢のポテンシャルだよ。催眠術は魔法じゃないから、0から1にはできない。少なからずおれと喋ってもいい気持ちがあるから話せているはずだし」
「うーん……」
戸惑う彼女の横で、くわえていたアイスとともに上を向く。すでに溶け切ってどろどろになっていた中身が、すっと喉の奥に流れた。
「よし。一回ここで解いてみるか」
明らかに明夢の顔がこわばった。
3回目の催眠を使った今。ここで解けば、今日はもう喋る催眠はかけられない。
二人分のゴミをまとめて捨てて、周りを見回してみる。
イートインと売り場の仕切りの向こう側には常に人の気配はするけど、こっちに来る様子はない。
とりあえず利用者はおれたちだけだし、迷惑にはならないだろう。
席に戻って、不安そうにうつむく明夢に声をかける。
「催眠を解く前に念のため。なにか言い残すことはない?」
「え〜、あたし今から処刑されるのかな〜? ……えっと、アイスのお金おいくら?」
「いいよ、ひとり60円くらいだし。それに今日これから喋れなくなったらかわいそうだから、お詫びとしておれのおごり」
「そっか、ありがとぉ」
明夢はほっとしたように微笑んだ。
それから再び下を向き、目をぎゅっと閉じる。
「うん……いいよ」
おれもうなずいて立ち上がり、彼女の横につく。
「……これからあなたにかけていた“楽しく喋る催眠”を解きます。解いたあとも、楽しかった感覚は残ります。……では、ゆっくり深呼吸して、体から力が抜けていくよ……」
何度かの深呼吸を聞いたあと、手を前に出す。
「催眠、解けるっ」
パチン。
彼女の耳元で鳴らした指を下げて、様子を観察しながら席に座る。
「……どう?」
問いかけると、彼女は深呼吸を止めた。
そして顔を上げると、力なく微笑み、首を振るのだった。
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