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「ハーイ、バディ! 神多くんは……っと、帰ってきてるじゃん」
「さすが英語教師、発音いいわね……。さっき帰ってきたところだけど静かにね? なっちゃん」
保健室のドアを開けて入ってきたのは、つなぎ姿のひっつめ髪という、いつものだらしない格好の一ノ瀬夏海担任教師だった。
少しくらい心配しているのかと思っていたけど、その足取りは明らかに軽快で、まどろみかけていた頭も一気に覚醒した。
一ノ瀬先生は、おれが座っていたベンチの隣に迷わず腰掛けた。
くっそ、完全に笑いを噛み殺してるし……。
「ストレス性胃炎、だって? いつから痛かったの?」
「数日前からです……」
「それで医者は?」
「人と喋るな……と」
「ブフッ! でっ、でしょうね。……っあっはははは!!」
人の気も知らずに大爆笑かよ……。
「なっちゃーん、ここ保健室ー」
「あっ、ごめんごめん〜」
チラリとおれたちの方を一瞥する養護教諭に謝ると、一ノ瀬先生はてへっとおれに向かって片目をつむった。
それで全部許されるのはJKまでっすよ、センセイ……。
「まあまあ、でもいいじゃん」
少し声のトーンを落としていたずらっぽく微笑む一ノ瀬先生に、おれは怪訝さを抑えられなかった。
「なにがです」
「喋らないのは得意でしょ? あなた、急に無理しすぎたのよ。……プッッ!」
「……」
そら吹き出すよな。
血を吐いた原因が人と喋りすぎたこととか、普通に情けない……。
「でも、やっぱりおれは続けます。じゃないと、おれたちの部活が不健全だって認めることになるから。おれ、一人だけのことじゃないんです。みんなにも迷惑がかかるから……」
もう笑い声は聞こえない。
その代わりに、大きなため息が出てきた。
「あーそっか。わかった。あたしもなるべく防波堤にはなるけど、あまりことを大きくしすぎないようにね。これ以上になるとさすがに防ぎ切れないわ」
「ありがとうございます、一ノ瀬先生……」
下げた頭に、ぽんっと小さな手を置かれた。
驚いて頭をゆっくりと上げると、その手が髪を上から下へと往復する。
どうやら撫でられてる……らしい。
いつもの雑な一ノ瀬先生の手とは思えないほど優しくて繊細な動きに、調子が狂う。
「本当に。あなたみたいないい子が、どうしてあんな風に悪意を向けられるんだろうね。どうせ動画もろくに見ていないヤツが好き勝手言ってるのよ」
悔しそうにつぶやくと、おれの瞳を覗き込む。
「いい、神多くん。味方はいるからね。だから、絶対にひとりでなんとかしようとしないこと。最悪、催眠術から離れることも考えなさい。そうすれば少し時間はかかるかもしれないけど、催眠術を始める前の日常に戻ることだってできるんだから」
「……」
「……よしよし♡ HRは出るでしょ? じゃああとでね」
ぽんぽんっ。
頭に心地よい重みを残して、一ノ瀬先生は振り向きもせず保健室を出て行った。
「前の日常に戻れる……か」
先生の言葉を繰り返すように、口の中でつぶやく。
誰とも喋らない。
誰とも関わらない。
面倒ごとを抱えない。
なぜなら、一人だから。
あれ……?
すごく楽……だな。
キョージンにまとわりつかれない。
日葉にも引っ張りまわされない。
明夢は無理をしなくてよくなるだろ。
拝慈は自分の仕事に没頭できるな。
佐々崎のウザ絡みもなくなるし。
一ノ瀬先生も上っ面で接してくれる。
そんな前の日常は……。
「なんだそれ、すっげーつまんないんだけど……」
ぽたり。
ズボンに小さな黒い染みが広がる。
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