(細かいことは気にするな。ここら辺の管轄のラインは曖昧だ。それに、奴に任せておきたくはない)
「奴」というのは、隣の管轄の神のことだ。
俺が住んでいる町は、鴨島町の「山路」というところだ。
2004年(平成16年)10月1日に麻植郡の山川町・川島町・美郷村と新設合併し、徳島県第5の市である吉野川市が発足したが、神にとっての管轄はそのままだった。
川島町を管轄している神、嵐山豪鬼(あらしやごうき)は、“伏雷(ふすいかづち)“の神号を持つ神だ。
「神号」っていうのは、神に与えられる“称号”のようなもので、その数は数百万にも及ぶとされる。
「八百万の神」っていう表現があるように、日本全土の各地方に神様はいて、海や山などの自然界や自然現象を司る神々、商売や学問の神々、縁結びなど人間関係の神など、さまざまな種類がいる。
『神道』。
日本では古来より、あらゆる自然物に神が宿ると考えられてきた。
実際に神は日常のそばにいて、人々の暮らしと環境を守ってきた神秘的な存在だった。
森羅万象に神が宿り、自然そのものの力が、神の本質的な起源にあるとされた。
自然の力は人間に恵みを与える一方、猛威もふるう。
人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知してきた。
また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えてきた。
そして、清浄ななかにも威容を誇る山や岩、木や滝などの自然物にも神さまが宿るとして、お祭りをするようになった。
祭りの場所には建物が建てられ、やがて「神社」が誕生した。
和茶が神社の敷地内で力を持つことができるのは、そういった「歴史」があるからだった。
神社にまつわる歴史や“教え”そのものを神道と呼び、その神道にまつわる神々の名を与えられた者が、晴れて正式な「神」となれる。
嵐山豪鬼は元々人間だった。
和茶だってそうだ。
黄泉の国、——つまり死んで成仏した後、神になれる「器」であるかを選定される。
神に相応しいものであるかどうかを見極められた後、あの世で新たな生を得るかどうかを問われるそうだった。
新たな生を得ることを了承すれば、その者は生前の記憶の一切を排除され、全く別の「魂」として現世に舞い戻ることを打診される。
神になれる者は全て、人間の頃の「時間=記録」を捨てなければならなかった。
そうすることで初めて“神号”を与えられ、「神」として働くことができるようになる。
ざっくり言うとこんな感じだ。
あくまで聞いた話でだから、どこまで正確かはわからない。
嵐山豪鬼は好戦的で、かなりマッチョな体型をしていた。
いかついリーゼント頭で、どこのヤンキーだよって感じの風貌だった。
和茶はヤツのことを嫌ってた。
理由はいくつかあるみたいだが、いちばんの理由は、“話が通じない”っていうところ。
わからなくはない。
俺も、何度か会話したことはあるし。
それはそれとして、管轄は管轄っていうルールは守らないと。
あとで始末書なんて書きたくないぜ?
言っとくが、お前だけの責任じゃなくなるんだからな?
それをわかってんのか?
(そういうとこだぞ?お前がモテないのは)
「は??」
(お前に彼女ができたのは、誰のおかげだったかな?)
…そう、俺には今彼女が3人いる。
だが、そんなクズみたいな生活を送っているのは、全部コイツのせいだった。
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