世界が色付くまで

篠原皐月
篠原皐月

第24話 故人との約束

公開日時: 2021年6月21日(月) 21:10
文字数:4,686

 六月に入ったばかりのその日、急遽開催された課長会議の議題が遅々として進まない事に、浩一は本気で腹を立てていた。


「……と言うわけでして、今後の初期研修の実施状況に関しては、該当の担当者任せにはせず、内容に関して上司である課長権限で拡大解釈も可能と言う事になるのですが、ここで問題になるのは……」

 司会役の赤石総務課長が、大して中身の無い内容をダラダラと喋り続け、いつの間にか終業時間も過ぎようとしている事に、周囲の課長達同様、浩一の苛立ちは最高潮に達した。


(相変わらず段取りは悪いわ、話は内容が無い上にくどいわ、事前の根回しは無いわ、議題の緊急性の判別も出来ないわとろくでもないな。この穀潰し野郎が!!)

 心の中で盛大に罵倒し、(後五分かかっても終わらなかったら、絶対に叩きのめす)と、日頃温厚な浩一には似合わず過激な事を考えた時、相手が漸く話を締めくくった。


「……それでは今日の会議は、これで終了と致します」

(やれやれ、やっと終わった。本当にろくでもない時間の浪費だったな)

 心底うんざりしながら、資料を纏めて浩一が席を立とうとした時、会議室の一角で狼狽気味の声が上がった。


「おい、どうした柏木!?」

「具合でも悪いのか!? しっかりしろ!」

 その声に慌てて浩一が姉が座っている筈の席に顔を向けると、何故か真澄は席に着いたまま、膝に両手を乗せてボロボロと涙を零していた。

 ただでさえ真澄の泣き顔など滅多にお目にかかる事は無い上に、今は彼女が妊娠後期に入った時期である事も相まって、浩一は文字通り血相を変えて、姉の元に駆け寄った。


「姉さん、大丈夫か? どうした!?」

「……浩一」

 周囲が狼狽する中、真澄が顔を上げて、浩一に頼りなさげな表情を見せる。それを目の当たりにした浩一は、更に顔付きを険しくして確認を入れた。


「気持ちが悪いのか? それともまさか、お腹がどこか痛むとか?」

「……六時過ぎたの」

「え? あ、ああ。過ぎたね。それが何か?」

 唐突にポツリと零された言葉に、浩一は面食らいながらも頷いた。すると真澄が、途切れ途切れに話を続ける。


「今日……、清人の、誕生日……」

 再び当惑しながらもその事実を思い出した浩一は、律儀に頷いてみせた。


「……ああ、そう言えばそうだったな。それが?」

「大学に合格した時、清人が叔父様にお願いして、合格祝いのお料理をご馳走して貰ったの」

「うん、それは俺も、覚えているけど……」

「それで……、その時叔父様にお願いして、清人の好きな料理のレシピを書いて貰って……。嬉しかったから、お礼にいつか清人に、お祝いのお料理を作って、あげよう、と、今日……」

「色々あって延び延びになってたそれを、今日作るつもりだったんだ。姉さん達、ちゃんと付き合って無かったしな」

 再び真澄の話は泣き声混じりになり、結婚するまでの姉夫婦の紆余曲折を思い返した浩一は思わず遠い目をした。そして事の成り行きを見守っていた周囲の者達は、その姉弟のやり取りを耳にして小声で囁き合う。


「何度も聞いたが、付き合って無かったのにいきなり入籍って謎だよな?」

「全く意味が分からんぞ」

「そこは突っ込むな。柏木だから何でも有りだろ」

 そんなやり取りを浩一が意識的に無視していると、微妙につかえながら、真澄が話を続けた。


「それで……、今日、結婚して初めての清人の誕生日だから、今日こそは手料理を、ご馳走、しようと……」

「そうか。清人が泣いて喜ぶよ」

 姉の心遣いを微笑ましく思い、浩一は思わず笑顔になったが、逆に真澄は顔を歪めた。


「だから……、午後早退して、調理するつもりが、急に重要な商談が入って、抜けられなくなって。何とかそれが終わったら、緊急の課長会議の招集がかかって、何事かと思って参加したら……」

「…………」

 そこまで言って再びボロボロと泣き出した真澄を見て、浩一は無言で司会役の赤石に険しい視線を向けた。周囲の課長達も浩一と心境は同じらしく、一斉に非難がましい視線を赤石に向ける。

 彼が室内の人間の冷たい視線を一身に浴びてたじろぐ姿を眺めてから、浩一は気を取り直して真澄を宥めにかかった。


「姉さん、落ち着いて。まだそんなに遅くないし、今から帰って料理を作っても、夕食としておかしい位遅くはならないから。大体あの清人が、少し位料理の出来上がりが遅くなっても文句を付ける筈がないさ。姉さんが作ってくれるとなったら大人しく何十分でも待ってるし、喜んで食べるよ。俺が保証する」

「……駄目なの」

 断言してみせた浩一だったが、真澄は力無く否定した。それを不思議に思いつつ、浩一が詳細を尋ねる。


「え? 何が駄目なんだ? 姉さんの事だから、食材とかはもう抜かりなく、家に揃えてあるんだろう?」

「食材は揃えてあるけど、もう無理……」

「だから、何がどう無理なわけ?」

 多少イラッとしながら問い質した浩一だったが、そこで真澄が予想外の事を言い出した。


「料理教室の先生のお宅で、先週の日曜に試作してみたら……。全部作り終えるまでに、五時間以上かかったの……」

「…………」

 そう言って真澄が項垂れると同時に、室内に何とも言い難い気まずい沈黙が漂う。そんな中、浩一が恐る恐る問いを発した。


「姉さん……、一体どれだけの量を作るつもりなんだ?」

 それを聞いた真澄はガバッと頭を上げ、浩一のスーツの襟元を掴んで盛大に泣き喚いた。


「二人分に決まってるでしょう!! 悪かったわね、料理センスがゼロで! お母様に『浩一にならともかく、真澄に料理を教えるなんて無駄でしょう』とまで、言われたしねぇぇっ!」

「ごめん、姉さん。俺が悪かった」

 浩一が心の底から謝罪したが、それが耳に入っていない様に、真澄は再び声を震わせ始めた。


「今から家に帰って作っても、今日中に作り終えるのは無理っ……。叔父様と約束、したのにっ……。時間、かかっても、いつまでも、待って、ますから……、清人の奴に、作ってやって、下さいってっ……。十六年、越し、だったのにぃぃっ!!」

 そこまで言って色々な感情が振り切れたのか、自分にしがみついて「うわぁぁぁん!!」とこれまで以上に盛大に泣き始めてしまった真澄に、浩一は本気で狼狽した。


「姉さん! お願いだからちょっと落ち着いて! 何も今日作らないと、一生作れなくなるってわけじゃないんだから! また何かの機会に作れば良いから! 今更また日延べしたって、清人も文句は言わないから!」

 そう宥めても真澄は一向に泣き止む気配を見せず、浩一は本気で途方に暮れた。


(駄目だ……、興奮して手が付けられない。よほど気合を入れて準備してたんだな。それなら商談は部下に任せて、こんなろくでもない会議なんかすっぽかせば良かったのに……。だけど、姉さんの性格なら無理か……)

 そこまで考えた浩一は、未だ会議室内に居心地悪そうに留まっていた今日の会議を招集した役員である緑山と、赤石の両者に完全に八つ当たりして睨み付ける。


(会議の内容が本当に重要だったら、まだ諦めもつくが、内容が内容だっただけに、悔しさで怒りが振り切れたか。姉さんの気持ちは分かるな……)

 そんな浩一の眼光の鋭さに、大の男二人が密かにおののいていると、ドアが小さくノックされて受付担当の女性が顔を覗かせた。


「失礼します。こちらに柏木課長はいらっしゃいますか?」

「ああ、残っているが、何か?」

 ドア近くに佇んでいた者が応じると、その女性はここへやって来た理由を説明した。


「ご主人が柏木課長を迎えにいらっしゃいまして、企画推進部ニ課に内線で確認しましたら、こちらで会議中との事でお連れしました」

「は?」

「どうぞ、こちらです」

「ありがとうございます。お手数おかけしました」

 室内の人間が、咄嗟に言われた意味が分からず唖然とする中、彼女は背後の人物に声をかけて道を譲った。すると礼を述べつつ現れた清人に、浩一と真澄が驚いた顔を向ける。


「清人!? お前、どうしてここに?」

「清人……」

「ああ、そんなに泣くな真澄。美人が台無しじゃないか」

 苦笑しながら会議室を横切り、真澄の目の前に来た清人は、屈み込んで取り出したハンカチで真澄の涙を綺麗に拭った。


「……どうして?」

 いきなり現れた清人に呆然としながら無意識に呟くと、清人が優しく言い聞かせた。

「真澄が帰宅予定時間になっても帰って来ないから、心配になって一応職場に電話してみたんだ。そうしたら緊急の会議に出てると言うじゃないか。真澄の性格からすると途中で抜ける事は考えにくいし、必然的に帰りは早くても定時上がりになるだろうから、今日は準備されていた食材で、俺が料理を作っておいたからな」

 それを聞いて、真澄は再び瞳を潤ませながら、悔しげな声を漏らした。


「私、作るつもりだった……」

「悪かったな。だが疲れて帰ってきた真澄を、余計に疲れさせる気にはなれなかったんだ。お腹もだいぶ大きくなっているしな。それに加えて、確かに真澄の手料理を振る舞って貰うのは魅力的だが、それより何より、真澄が笑顔で俺の誕生日を祝ってくれるのが重要なんだ」

「勿論、お祝いするわよ?」

 何とか気合を入れて泣くのを止め、手で両目を擦った真澄に、清人は優しく笑いかける。


「だから今日のところは、機嫌を直して一緒に帰って、俺の作った料理を一緒に食べてくれないか? 俺はそれで、十分満足なんだが」

「……分かったわ。帰る」

 まだ気分が上向いているとは言えなさそうな真澄だったが、一応素直に頷いて見せた為、清人はその頭を満足そうに軽く撫でた。そして嬉しそうな笑顔のまま、ある提案をしてくる。


「今日は残念だったが、そうだな……。結婚記念日のディナーは真澄が作ってくれないか?」

「結婚記念日?」

「ああ。十一月に。その頃は真澄の出産も済んで体調は余裕で戻っている頃だし、育児休業中で家に居るし、ゆっくり料理ができるだろう? 俺的には今日より、寧ろそっちの方が良いな。記念日すべき結婚一周年だし」

 言われた内容を頭の中で吟味したらしい真澄は、清人の主張を尤もな事だと納得し、表情を明るくして請け負った。


「そうね、分かったわ。じゃあ十一月には絶対作ってご馳走するから。もう少し待っててね?」

「ああ。楽しみにしてる」

 嬉しそうにお伺いを立ててきた真澄に、清人も満面の笑みで答える。そして手早く荷物を纏めた真澄を促して立たせ、二人揃って周囲に軽く頭を下げた。


「お先に失礼します」

「お騒がせしました」

 そして呆然と二人のやり取りを見守っていた浩一を含む課長達に、何食わぬ顔で挨拶をした二人は、寄り添って歩きながら会議室を後にした。


(本当に、お騒がせカップルだよな、あの二人……)

 疲労感と共に頭痛を覚えた浩一が、呆れながら姉夫婦を見送ると、呆然と見送っていた周囲から声がかけられる。


「浩一課長……」

「何でしょうか?」

「その……、柏木が別人なんだが……。家ではいつもあんな感じなのか?」

 恐る恐る問われた質問に、浩一は腹立たしく思いながら断言した。


「家では、あれの五割増しバカップルです」

「……そうか。色々苦労が多そうだな」

 思わず周囲から憐憫の眼差しを受けてしまった浩一は、それを半ば無視して自分の席に戻り、手早く資料を纏め始めた。そして人々が動き出してざわめきが戻った室内で、ふと口元に笑みを浮かべる。


(結婚記念日か……。確かにその時期なら姉さんは家に居るし、仕事で邪魔をされる事も無いだろうから妥当だな。その時は何を出されても、根性で全部味わって食えよ? 清人)

 そんな風に浩一は高みの見物を決め込んだが、その当日に再び自分が巻き込まれる事態になるなどという事は、予想だにしていなかった。


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