梅雨の時期に入ったにも関わらず、珍しく晴れ上がったある日。
朝食を済ませて柏木産業に雄一郎と清人を送り出した柏木邸に、客人が一人やって来た。
「真澄様。明良様がいらっしゃいました」
「こちらに通して頂戴」
「畏まりました」
使用人と孫娘のやり取りを聞いて、広い応接室で真一をあやしつつ談笑していた総一郎は、怪訝な顔になった。
「何だ? 明良が来る用事が有ったのか?」
「ええ。ちょっとした事を頼んでいまして」
「そうなの?」
玲子も真由子を抱っこしながら不思議そうな表情になったが、真澄は惚けてそれ以上は語らず、自身のカップの中身を飲み干した。するとすぐに、案内されてきた明良が顔を見せる。
「こんにちは、お祖父さん、玲子伯母さん。真澄姉、頼まれた物を持って来ました」
「ご苦労様。色々面倒をかけて悪かったわね」
「とんでもない。真澄姉と清人さんの命令なら、どこへでも行きますよ」
労いの言葉をかけた真澄に、明良は笑って応じながら彼女の隣に座り、持参したショルダーバッグの中から、大判の封筒を取り出した。
「じゃあ取り敢えず、これをどうぞ」
「ありがとう」
差し出されたそれを受け取り、早速中身を取り出してみた真澄は、その写真を見て感嘆の声を漏らした。
「あら、やっぱりプロね。綺麗に撮れてるじゃない」
「そりゃあ、これで飯を食っているんですから」
明良が苦笑しながら言葉を返すと、テーブルの向こうから玲子が不思議そうに声をかけてくる。
「あら、それは何?」
「浩一の結婚式の写真です。お母様も見ますか?」
「まあ! そんな物があるの? 見せて頂戴!」
嬉々として腰を浮かせた玲子から、すかさず明良が真由子を受け取り、真澄は母親に手元の写真を手渡した。そして年齢も肌や瞳の色調も雑多な集団の中にあって、新郎新婦が揃いの白い衣装に身を包んだ集合写真を眺めた玲子が、しみじみと感想を述べる。
「やっぱり綺麗ねえ、恭子さん。浩一も我が息子ながら、なかなかの男ぶりじゃないの」
「そうですね」
「全く、息子の結婚式だっていうのに、親が出席できないなんて……。あの人のせいで」
そこでブチブチと夫の悪口を呟き出した玲子の手元を横目で眺めながら、総一郎が不機嫌そうに口を挟んできた。
「仕方あるまい。相手が相手じゃからの。大体、浩一も浩一じゃ。あんな女に誑かされおって」
「お祖父様」
「そういえば真澄。後からお金を渡すから、清人さんに渡してくれないかしら?」
祖父に文句を言おうとした所で、玲子が突然脈絡の無さそうな話を持ち出してきた為、真澄は目を丸くしながら尋ね返した。
「お母様? 清人にお金を借りていたんですか?」
「いいえ。私が借りた訳ではないし、返す筋合いも無いのだけれどね。ちょっとした年寄りの尻拭いよ。銀行振込手数料七回分と言えば分かるわ」
「振込手数料、七回分ですか?」
真澄はまだ意味を捉えかねて不思議そうな顔になったが、玲子から意味深な視線を向けられた総一郎は、ギクリと全身を強張らせた。
「ええ。把握するのがちょっと遅くなって、申し訳なかったと伝えて頂戴」
「はぁ……、分かりました」
「その、玲子さん。儂は電話をかける用件を思い出したから、少し離れに戻っておるからの」
「はい、どうぞごゆっくり」
そして真澄に真一を渡し、ほうほうの体で離れに逃げ帰った総一郎を見送ってから、真澄は玲子に鋭い視線を向けた。
「お祖父様が、何かしたんですか?」
その追及に、玲子が苦笑いで応じる。
「ちょっとね。でもあなたを必要以上に怒らせたくなくて、清人さんも黙っていたと思うから、今の事はこれ以上聞かないで頂戴」
こういう時の母親が口を割らない事を知っていた真澄は、あっさりと話を変えた。
「分かりました。そうします。でも私も知らない事を、どうしてお母様がご存じなんですか?」
「基本的にお金の流れをきちんと把握していれば、その人がどんな生活をしているか、自ずと分かるものよ。これでも銀行家の娘ですからね」
「なるほど。そういう事ですか」
真澄が素直に感心した所で、今度は明良が疑問を呈した。
「ところで真澄姉。式で恭子さんが着たウェディングドレス、真澄姉が送った物ですよね?」
「そうよ。もう浩一に愛想尽かされてるってぐずぐず言うから、彼女と賭けをしてね。浩一が彼女を受け入れたら私の勝ちで、ある物を一つ受け取って貰う。本当に浩一が愛想を尽かしてたら彼女の勝ちで、貰った指輪は私が責任を持って引き取るって事にしてたの」
それを聞いた明良は、かなり無茶苦茶な内容に呆れながら、話を続けた。
「それで押し付けたんですか。でもあのドレス、ひょっとしたらかなり前から準備してませんでしたか? 彼女がサイズがピッタリだと喜んでましたから」
そこで真澄は、如何にも狡猾そうな笑みを、その顔に浮かべた。
「去年の私達の結婚披露宴で、彼女に新郎側の受付を頼んだ時、清人が『貧相な格好をされたら俺の恥だ』と難癖を付けて、フォーマルドレスを購入して着させたの」
「ああ、確かにそんな事を言っていましたね」
「その店、ウェディングも取り扱っていてね。購入する時に、より身体に合うものを探すとか適当な理由を付けて、必要なサイズを全部採寸して貰って、セミオーダーでウェディングドレスを作らせておいたのよ」
「真澄姉、相変わらず太っ腹ですね。だけど一年以上経っていて、サイズが合わなくなるって事は、考えなかったんですか?」
明良の当然の疑問に、真澄が平然と答える。
「彼女『体型が変わったら服が着られなくなります』と言って、これまで何年も体型を崩さなかったもの。一度サイズを測っておけば大丈夫の筈だし、その点は心配して無かったわ」
「なるほど」
納得して明良が頷くのとほぼ同時に、何枚ものスナップ写真を見終わって、封筒にしまい込んだ玲子が、静かに声をかけてきた。
「ところで真澄」
「何ですか? お母様」
「あの子達は戻って来るのかしら?」
その問いかけに、真澄は余裕の笑みを浮かべながら頷く。
「勿論、戻って来ますよ。二人とも律儀な性格ですから。十年先か二十年先になるか、それは現時点では分かりませんが」
真澄がそう保証すると、玲子は満足そうに頷いた。
「戻って来るなら良いのよ。いざとなったら、こちらから様子を見に行けば良いしね」
「訪ねる前には、一応連絡を入れてあげて下さい。それと、お父様とお祖父様をいびるのも、ほどほどにしてあげて下さいね?」
「真澄に免じて、ほどほどにしてあげるわ。それじゃあ明良君、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
そして微笑みつつ優雅な動きで立ち上がった玲子が応接間から立ち去ると、二人取り残された室内で、真澄が幾分心配そうに問いを発した。
「それで、どんな感じ?」
その省略しまくった質問にも関わらず、明良は笑って相手の望む答えを返した。
「なんとか上手くやってるみたいですよ? その式も、職場の皆さんが全面的に取り仕切ってくれてましたし」
それを聞いた真澄が、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それなら良かったわ。少し安心できたわね。全く……、落ち着いたら皆に、葉書の一枚でもくれるでしょうね? 清香ちゃんにも何も言って無かったみたいで、凄く驚かれたのよ?」
安堵した後、急に怒りがぶり返したらしい真澄に、明良は苦笑しながら進言した。
「寄越さなかったら、是非とも真澄姉から教育的指導をして下さい」
「絶対そうするわ」
そう口にしつつも(恭子さんが付いているんだから、そんな事は無いでしょうけど)などと考えていた真澄は、内心で同意見だったらしい明良と顔を見合わせて苦笑した。
それから暫くの間、真澄は大きな窓から澄み渡った青い空を見上げた。そして全てのしがらみを解き放って広い世界に飛び出して行った弟夫婦の事を、ほんの少しだけ羨ましく思いつつ、これからの事を考えて一時を過ごした。
【完】
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