そんな事があった翌日、残業で恭子の帰宅が遅くなった。
「……戻りました」
「お帰り。ちょうど良かった。今、夕飯を作り終えた所なんだ」
控え目に台所に声をかけると、浩一が笑ってエプロンを外すところで、恐縮した恭子は軽く頭を下げた。
「すみません、浩一さんも忙しいのに」
「構わないよ。ここの所、恭子さんは残業が多いみたいだし。食事は時間に余裕がある方が作る事にしてたしね。年末でどこも大変なんだろう?」
「……ええ、まあ、そんな所です」
かなり含みのある、何かをごまかす様な返答ではあったが、浩一はそれに気付かないふりをして、手早く皿に料理を盛り付けた。
「遅い時は無理しないで連絡して。早ければ俺が作るし、俺も遅くなるなら外で食べてくるから」
「お願いします」
そして浩一に協力して皿をダイニングテーブルに運ぼうとした恭子は、リビングの向こう側にある応接セットの真ん中に見慣れない色彩を認め、軽く驚いて足を止めた。
「え?」
「恭子さん、どうかした?」
「浩一さん。コーヒーテーブルのあの花は……」
自分の後ろから、同様に皿を抱えて移動してきた浩一に恭子が問いかけると、浩一は素知らぬ顔で尋ね返した。
「ああ、あれ? 今日何となく、帰り道で買って来てしまったんだ。パンジーは嫌いかな?」
「いえ、嫌いではないです。ちょっと驚いただけですから」
「そう? じゃあ食べようか」
「はい」
慌てて否定した恭子は再度チラリとそれを見てから席に着き、浩一も食事中は花の事には触れず、いつも通り和やかな雰囲気のまま食べ終えた。そしてマグカップを抱えて二人でソファーに移動し、向かい合って座ってから、浩一が穏やかな口調で尋ねる。
「それで、どうしてこれで驚いたのかな?」
パンジーの鉢植えを指差しながらの問いかけに、恭子は隠すことなく苦笑いで答えた。
「昨日、懐かしくて、花屋で眺めていたので。凄い偶然だなと思いまして」
「ああ、だからか。でも懐かしいなんて、何か思い出でもあるの?」
昨日こっそり様子を窺っていた事など微塵も悟らせずに浩一が尋ねてみると、恭子はどこか懐かしむ様な表情で語り出した。
「昔、家の庭に植えてあったんです。庭と言っても、猫の額程度の物でしたが」
そう言って恭子は苦笑したが、彼女にとって家族や昔の事に触れるのは、かなりデリケートな問題だと分かっていた為、浩一は慎重に問いを重ねてみた。
「……へえ、そうだったんだ。お母さんが好きだったとか?」
「好きだからと言うより、私達の花だったからですね」
「私達の花って?」
考えながら彼女が口にした言葉の意味が分からず、浩一が首を捻った為、恭子は説明を加えた。
「私の誕生日は1月9日ですが、私が子供の頃に母が調べたら、それに対応する誕生花がパンジーだったそうなんです。妹のそれは桜草で。それが理由だと思うんですが、母が毎年庭で咲かせていました」
「そうなんだ」
思わず頷いて納得した浩一だったが、ここで恭子が小さく笑い出しながら告げた。
「でも、誕生花なんて、結構いい加減なんですよね。設定している団体や、書かれている本によって随分違いますし。偶々母が目にしたのが、それだっただけです。でも、妹と一緒に苦笑いしてたんですよ」
「どうして?」
何がそんなに面白いのかと怪訝な顔になった浩一だったが、恭子は苦笑の表情のまま理由を説明した。
「『どちらも花束にならない、大して見栄えのしない花だから、どうせならもっと華やかな花だったら良かったのにね』って言ってまして。でも結局『私達にはお似合いよね』って笑って終わってましたが」
「俺は好きだけど」
「え?」
唐突に告げられた言葉に恭子が戸惑っていると、浩一が真顔で延々と語り出した。
「変に香りが強くて自己主張が激しい花なんて御免だし、彩りが少ない寒い時期に綺麗に咲いているのも良いし、パンジーと一口に言っても色々な色形があって種類が豊富だし、確かに花束にはしにくいかもしれないけど、そもそも切り花なんて数日で枯れるんだし、ちゃんと根を張って長期間咲いているのは微笑ましいし。それに……、ごめん。何でもないから」
そこで呆気に取られた表情の恭子と視線が合った途端、浩一は口を閉ざしてどこか気まずそうに視線を逸らした。その様子を見て恭子は益々混乱する。
(どうしたのかしら? ついさっきまで、あんなに饒舌だったのに、急に黙り込んで。浩一さんが、何だかパンジーが妙に気に入ってるらしいのは分かったけど……)
不思議に思いつつも、(花について熱く語ったのが、急に恥ずかしくなったのかしら?)と判断した恭子は、その場を取りなす様に言ってみた。
「わざわざ買ってきた位ですし、浩一さんは何かよほどパンジーに思い入れが有るみたいですね。やっぱり可愛いですよね。浩一さんのイメージには、少し合わない気がしますが」
何気なく言ってみた恭子だったが、何故か浩一はやや気落ちした風情で尋ねてきた。
「……そんなに似合わない?」
「いえ、絶対似合わないとか、変だとまでは言いませんし、そもそも花の好き嫌いなんて、個人の自由だと思いますから……」
そう宥めたものの、再び黙り込んでしまった浩一に、恭子は思わず溜め息を吐きたくなった。
(どうしたのかしら。怒ってる感じはしないんだけど、私何か、浩一さんの気に障る事を言ったかしら?)
しかし黙ったままでは空気が重い為、恭子は頭をフル回転させて、無難と思われる話題を捻り出した。
「あの……、せっかく買ってきたんですから、今度の休みに一回り大きいサイズの、ちゃんとした植木鉢と土を買いに行きませんか?」
すると浩一は予想に違わず反応してきた。
「いや、わざわざ買う必要は無いから。どちらも実家に有り余ってるから、清人に会社まで持って来て貰う事にするよ。それを俺が持ち帰るから」
それを聞いた恭子は、思わず顔を引き攣らせた。
「まさか先生を、宅配便の配送員扱いする気ですか?」
「別にこれ位どうって事無いし、土なんて買うものじゃないだろう?」
「私には無理です。そんな事させたら、絶対『土1キロにつき百万支払え』とか言われます」
「言うかもしれないな」
思わず苦笑した浩一に、恭子は更に感じたままを告げた。
「それに、やっぱり浩一さんって、良いお家の人ですよね?」
「どうして?」
僅かに表情を固くした浩一の変化に気付かないまま、恭子は面白そうにその理由を説明した。
「ずっとマンション暮らしの人なら、ガーデニングしたいと思ったら、土は買う物なんですよ。浩一さんはずっと広いお庭がある所で過ごしてきたので、そういう感覚は分かりませんよね」
「……ああ、そういう事か。そうかもしれないね」
それからお茶を飲みながら恭子は優しい視線でテーブル上の花を眺めていたが、そんな恭子を見ながら浩一は密かに溜め息を吐いた。
それからお茶を飲み終えて自室に引き上げた浩一は、自分の携帯を取り出してアドレス帳に登録してある番号を呼び出した。
「はい、小笠原です」
「聡君? 浩一だけど、今、ちょっと良いかな?」
「はい、平気です。……そろそろ俺に、連絡を取ってくる頃合いかと思っていました」
溜め息混じりの応答の声に、浩一は眉を寄せたものの、口調はいつもの状態を保ったまま話を続けた。
「予想していたと言う事は、今そちらの営業一課で、彼女の周囲で何が起きているかは、君は把握済みなんだな?」
「ええ。ですが正直、俺も困っているんです。周囲には分からない様に、巧妙に彼女が煽っていまして。そもそもの原因が彼女なので、俺が状況を改善する事は出来ません」
聡が弁解がましく言ってきた内容に腹を立てる事無く、浩一は冷静に話の続きを促す。
「君の立場が色々難しいのは分かっているよ。取り敢えず、一通り聞かせて貰えるかな? 最近急に彼女の帰りが遅くなったし、何となく様子もおかしいから」
「分かりました」
そうして浩一は、聡から不愉快そのものの話を聞かされたが、特に怒りを露わにする事無く、黙って最後まで聞き役に徹した。
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