その後、早速社内発表された内容の為、勤務時間の残りを喧しい周囲に苛つきながら過ごした浩一は、何とか定時で業務を終え、詳細を聞き出そうと纏わりつく上役や同僚達を何とか振り切って帰宅したが、リビングで三つ指をついた恭子に出迎えられて、軽く顔を歪めた。
「お帰りなさい、浩一さん」
「……何事?」
その問い掛けに、恭子が正座したまま律儀に答える。
「その……、夕刻、先生から指示がありまして。『今日は浩一が怒って帰るから、早退してご機嫌を取る準備をしておけ』と」
そこでチラリとダイニングテーブルを眺めた浩一は、皮肉っぽく確認を入れた。
「へぇ……、それで《これ》?」
「はい。『浩一の好物だから』と言われまして」
「確かにそうだね。着替えてくる」
ボソッと面白く無さそうにそう告げた浩一がリビングを出て行き、恭子は立ち上がりながら溜め息を吐いた。
(うっわ、確かに不機嫌オーラが滲み出てる。先生から『浩一の普段滅多に怒りを露わにしないし、怒っても五段階評価の1だが、今日は3か4レベルになってるから気を付けろ』と言われたけど……)
そんな事を考えながらご飯とお味噌汁をよそい、冷めた物を温めているうちに、着替えを済ませた浩一が戻って来た。
「お待たせ。じゃあ食べようか」
「はい、いただきます」
「いただきます」
そうして表面上はいつも通りに食べ始めた二人だったが、いつもとは異なり静かな食卓となった。
(沈黙が重い……)
(くそ、美味しいじゃないか……。だけど料理で丸め込まれたなんて思われるのはしゃくだしな)
緩みそうになる顔を必死に引き締めた浩一は、腹を立てている風情を装って問い掛けた。
「それで? 当然恭子さんは、清人が姉さんから仕事を引き継いで、柏木産業で課長職を代行する事は知ってたんだよね? あいつが休筆宣言する事も知ってたし」
「はぁ……、その、申し訳ありません。今まで隠していまして」
全く言い逃れする余地がない内容に、恭子がひたすら恐縮する。それに浩一が素っ気なく答えて、食事を再開した。
「良いよ。あいつに口止めされていたんだろう? 恭子さんがあいつに逆らえないのは、承知しているし」
「そう言って頂けると、ありがたいです……」
(何となくいつもの浩一さんらしくなく、言い方に若干棘が……。怒るのは無理ないけど)
思わず溜め息を吐きたくなった恭子だったが、浩一が何かに気付いた様に言葉を継いだ。
「それで、今日は清人の奴に、他に何かしろとか言われてないのか?」
それに恭子が盛大に顔を顰めて答える。
「確かに言われましたが……、『他にも浩一が喜びそうな事をしてご機嫌を取れ』と言われても、どうすれば良いやら。普通の人なら『憂さ晴らしにベッドで一晩相手しろ』とか言いそうですけど、間違っても浩一さんは、そんな事言いませんよね?」
「……そうだな」
「それで重ねて先生に尋ねてみても『野球拳でもやってろ』と言われましたが、それこそ論外でしょうし……」
「…………」
本気で途方に暮れた風情の恭子を無表情で眺めた浩一は、頭の中で清人を盛大に罵倒した。
(あの野郎……、どこまで俺をおちょくれば気が済むんだ?)
そして恭子が口にした内容について、真剣に考え込む。
「憂さ晴らし、ねぇ……。恭子さんに何かやって貰っても、大抵の事はソツなくこなしそうだから、戸惑う所が見たくて嫌がらせでやらせてみても、楽しさ半減どころか、余計ストレスが溜まりそうだしな……」
(う……、今、嫌がらせって言った! やっぱりいつもの浩一さんと違うわ)
そんな風に恭子が密かにおののいていると、浩一が何を思い付いたのか嬉々として声を上げた。
「ああ、あれがあったか」
「何が、ですか?」
僅かに警戒しながら問い掛けた恭子だったが、浩一はいつもの笑みを浮かべながら言い返す。
「まず食べ切ってしまおうか。食後に、恭子さんにして欲しい事があるんだけど」
「分かりました。何でも仰って下さい」
「ありがとう」
そうして表面上は和やかに食べ終えた浩一は、お茶を飲みながら恭子に尋ねた。
「恭子さん、1.5mから2m位の長さで、細めの紐は有るかな?」
「探せば有ると思いますが、何に使うんですか?」
「あやとりをしようと思って」
「……あやとり、ですか?」
戸惑った声を出した恭子に、浩一が苦笑して茶を啜ってから説明した。
「俺がまだ小学生の時に亡くなった、父方の祖母はあやとりが得意でね。自分で新しい形とかを良く考え出してて、寝たり起きたりの状態になってからも、姉と二人で色々手ほどきして貰ってたんだ」
「そうだったんですか」
素直に頷いた恭子に、浩一が面白そうに小さく笑う。
「ひょっとしたら、これは清人も知らないかな? 姉さんとは時々思い出した様にやっているけど、わざわざ人前でやってみせた事は無いし、姉さんは清香ちゃんと二人で遊んでいた事はあったけど、俺は皆と一緒に、騒いで遊ぶのが常だったから」
「確かに、先生からお話は聞いた事はないですね」
「そういう事だからちょっと相手してくれない? 三十勝もすれば気が済むと思うし」
「分かりました。適当な物を探して来ますので、少し待ってて下さい」
そう言いながら立ち上がった恭子は、テーブルでお茶を飲んでいた浩一をその場に残し、廊下に出て整理棚の扉を開けて苦笑した。
(あやとりが得意って言うのは意外だったけど……、三十勝? 本当なら三十勝するまで、どれだけ時間がかかるか見ものだけど、気分転換して貰わなければいけないから、適当に手を抜いて負けてあげないとね)
余裕でそんな事を考えながら適当な太さと長さの紐を見つけ出した恭子は、それを手にしてリビングへと戻った。
「お待たせしました、浩一さん」
「じゃあ始めようか。交互に紐を取っていって、相手から紐を取れなくなったり、形が崩れたら負けで良い?」
「はい、それで」
両端を結び付け、輪になったそれを両手の指で取りながら確認を入れた浩一に、恭子が不敵に頷く。
そして、開始三十分後。
「浩一さん……、いつの間にか、また思いっ切り左右非対称な形になってるんですが?」
ソファーで隣り合って座った浩一の両手の間で、複雑に絡み合っている物を見た恭子は頬をひくつかせたが、相手は平然と言い返した。
「ちゃんと指で固定されてるし、これはれっきとした『鶴と亀』の形だよ?」
「それの一体どこが『鶴』で、どこが『亀』なんですかっ!?」
思わず盛大に抗議した恭子だったが、浩一は如何にも残念そうに言葉を返した。
「ちょっと両手が塞がってるから、説明が難しいな……。それより取るのは無理? それならギブアップして良いよ? もう二回ギブアップしてるし、二回も三回も変わりないだろう」
「取ります! 取ってみせようじゃありませんか!!」
勢い込んで両手を伸ばした恭子に、浩一が些かのんびりとした口調で声をかける。
「恭子さん」
「何ですか。うるさいです! 気が散りますから黙ってて下さい!」
「そこを引くと崩れる」
「あぁっ!! ちょっと! そういう事は早く教えて下さいよ!」
何とか取ったつもりが、スルスルと解けて自分の両手にだらしなく垂れ下がった紐を見て、恭子は本気で腹を立てたが、浩一は明るく笑って謝罪した。
「ごめんごめん。次からは早めに教えるよ。じゃあまた俺が一勝、と」
「…………っ!」
そして謝罪しながらローテーブルに置かれた紙に自分の勝利数を数える為の『正』の字の一画を堂々と書き加えた浩一を見て、恭子は密かに怒りに震えた。
(この人……、やっぱり先生の友人だけあって、なかなか良い性格してるじゃないの。先生の極悪さに隠れて分からなかったけど)
そして、更に二時間後。
「まあ、こんな感じかな? 良い気分転換になったよ。三十勝も出来れば十分だから。付き合って貰ってありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい……」
当初の目的を達した浩一は時間を確認し、すっきりした顔付きで言いたい事だけ言ってリビングを出て行った。そしてソファーには、敗北感にまみれた恭子が取り残される。
(ちょっと待って……、四勝三十敗って、何? 手加減する以前に、どうしてこんなボロ負け状態……)
つい先程まで酷使していた紐を握り締めながら、本気で呻く恭子。
「流石、あの真澄さんの弟。やっぱり予想が付かなくて、侮れないわ。……今度は絶対、勝率を上げてやる」
一人きりのリビングで、恭子は密かに握り締めた紐に、そんな事を誓った。
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