世界が色付くまで

篠原皐月
篠原皐月

第70話 清香の来訪

公開日時: 2021年8月5日(木) 20:33
文字数:3,069

 休日の朝。二人顔を揃えて朝食を食べ終え、食後のお茶を飲んでいた浩一は、できるだけさり気なく、向かい側に座る恭子に声をかけてみた。


「恭子さん、今日の予定は?」

 唐突に話しかけられて、僅かに驚いた表情を見せたものの、恭子はすぐに冷静に自身の予定を口にした。

「外出する予定は特にありませんが、新しい職場で必要な資料を、集中して読み込んでおこうかと」

「ああ、今度はカルディの会長秘書業に就いたんだったね」

 納得した様に頷いた浩一に、恭子が苦笑気味に肩を竦める。


「秘書と言っても、会長は表向きは第一線から退いていらっしゃるので、お守兼暇潰しお手伝い要員ですが、会長は今でも社内外のお付き合いはされていますので。主にそちらの方を」

「そうだろうね。一代であそこまで事業を拡大させた女傑だから、社長に権限を譲っても交友範囲はそれなりだろう」

「そうですね……」

 そしてそこで不自然に会話が途切れ、二人で申し合わせた様に湯飲みの茶をすすった。


(あの時以来、微妙に会話が続かないわ。殴ったのはお互い様だし、勘違いしたのも尤もだと思うし、気にしてないって言ったんだけど……)

(あの後、一応謝ったが、何となく気まずい。現実問題として、こんな事でうだうだしてる状況じゃ無いんだが……)

 普通であればいかようにでも場を和ませられるタイプの両者は、この時お互いにそんな事を考えながら、この場に漂う微妙に気まずい空気をどうする事もできず持て余していた。そんな中、テーブルに置いていた浩一のスマホが着信を知らせる。


(誰だ、こんな時に……)

 苛立たしげに湯飲みを置き、それを取り上げた浩一は、発信者名を見て首を傾げた。


「清香ちゃん?」

 思わず、といった感じで恭子が視線を向けてきたが、それには気付かないまま急いで電話を受ける。

「もしもし? 清香ちゃん、どうしたの?」

「こんにちは、浩一さん。今日って何か予定はありますか?」

 挨拶に引き続いての唐突な問いかけに、浩一は思わず口ごもった。


「いや……、別に、これと言って決まった予定は無いけど……」

「えっと、それじゃあ、午後からそっちにお邪魔して構わないですか?」

「あ、ああ、俺は構わないけど……、ちょっと待って」

 そして浩一は一応スマホを耳から離してから、恭子に尋ねてみた。


「恭子さん、清香ちゃんが午後からここに来たいって言ってるんだけど、構わないかな?」

「え、ええ……、私は構いませんよ?」

 それを受けて、浩一が再びスマホを耳に当てる。


「俺達は構わないから、好きな時間においで。大歓迎だよ」

「ありがとうございます。じゃあ二時頃、お邪魔しますね」

「ああ、分かった。それじゃあ」

(清香ちゃん……、よりにもよってどうしてこんなタイミングで訪ねて来るの……。でもせっかくの休日に朝から微妙に空気が重いし、一日こんな調子で過ごすより、良かったかもしれないわ)

 困惑と安堵とが入り交じった心境で、恭子がぼんやりと眺めていると、通話を終えた浩一が短く告げた。


「二時頃に来るそうだよ」

「分かりました。それなら、お昼も早めに済ませておきましょう」

「そうだね」

(清香ちゃん……、どうして急に来る気になったんだか。どうもあの子とは、俺が弱ってる時に顔を合わせる運命らしいな)

 そうしてお茶やお茶菓子をどうするかとブツブツ呟き出した恭子を眺めながら、浩一は密かに一つ溜め息を吐いた。


 午後になって、清香が予告時間通りマンションを訪ねて来たが、出迎えてくれたのが浩一だけだった為、清香は玄関口で挨拶もそこそこに首を傾げた。


「浩一さん、今日は恭子さんは外出していたの?」

「いや、ちょっと急に買いに行きたい物ができたそうでね。そんなに遅くならずに戻って来ると思うよ?」

「そうなんだ」

 この一年近く、訪ねた時は毎回二人で出迎えてくれていた為、清香は違和感を感じたが、それには触れずに上がり込んだ。そして浩一が出してくれたお茶とお菓子に手をつけながら、来訪の目的を話し始める。


「浩一さん、卒業祝いをどうもありがとう。それから四月から、宜しくお願いします」

 そう言って頭を下げた清香を、浩一は感慨深げに見やった。

「そうか……。来月から、清香ちゃんは柏木産業勤務になるんだったね。あの小さかった女の子が、もう社会人で職場の後輩か。時の流れって早いな」

「浩一さん、ちょっとおじさん臭い」

「清香ちゃんから見たら、三十代はおじさんじゃないのかな?」

「浩一さんだったら、四十代になっても五十代になっても、お兄さん扱いしてあげます」

「それは嬉しいな」

 にっこり笑いながら清香が口にした内容に、浩一は久しぶりに心の底から笑い、幾分救われた気持ちになりながら話題を変えた。


「それはそうと、この入社直前の時期になってから聞くのはなんだけど、清香ちゃんの中では柏木産業に入社する事について、ちゃんと納得しているのかな? もともと司書を目指してたんだし」

 その問いかけに、清香は軽く頷いて答えた。


「勿論、なれなかったのは残念よ? でもきちんと自立する事がまず第一だし、これまで大学で学んだ事が活かせる職場であれば良いかなって思ってるの。それにどんな仕事かなんて、やってみなければ分からないでしょう?」

「確かに、それはそうだね。因みに、どういう職場への配属を希望してるのかな?」

「色々な部署の事を調べてみたんだけど……。初期研修が終了したら、生活環境ビジネス部かメディア情報事業部に配属して貰えたら、嬉しいと思っているの。こればかりはどうなるか分からないけど」

 そう言って苦笑した清香に、浩一は納得した様に頷く。


「なるほど。どちらの部も、事業のほんの一部ではあるけれど、人材派遣・教育・フランチャイズビジネス等の海外展開に係わったり、通信やネットワーク事業を含む幅広いライフスタイル・リテイル事業に携わっているね。そこら辺に興味があるんだろう?」

「はい。でも浩一さん、凄い。営業部の事じゃないのに、他の事業部の業務内容の事まで頭に入れてるの?」

 感心した様に目を丸くした清香だったが、浩一は事も無げに応じた。


「それは当然だよ。専門性を高めた営業部だとしても、そこだけで完結して仕事ができる事の方が少ないんだ。流通部門とは常に連携を取らなくちゃいけないし、複数の部で協力して商談を進める場合だってある。各部署の業務内容、得意分野を頭に入れておくのは、最低限の事だよ?」

「そうなんだ……。うぅ、何だかプレッシャーを感じてきた」

 そこで項垂れて溜め息を吐いてしまった清香に、浩一が優しく声をかける。


「最初からそこまでは要求されないから。初年度は取り敢えず一つずつ、確実に覚えていけば大丈夫だよ?」

「うん。ありがとう浩一さん。やっぱり浩一さんって、優しくて頼りになる良い人だよね?」

「……良い人?」

 気を取り直した清香が思った事を素直に口にしたが、そこで浩一は表情を消して問い返した。その反応を訝しく思った清香が、問い返してみる。


「うん、そう言ったけど……。どうかした?」

「いや……、何でも無いんだ……」

 そこで浩一が無言でカップを口に含んだ為、清香も相手を注意深く観察しながら、静かに紅茶を口に含んだ。


(何でもないって顔付きじゃ無いんだけど……。私、何も気に障る様な事は、言ってないよね?)

(良い人か……。総じて俺に対する評価は、どうしてもそんなものなんだろうな……)

 そんな事を密かに考えながらも、それからは近況を報告しあったり、柏木産業内の話でそれなりに楽しく時間を過ごしていると、リビングのドアを開けて、紙袋を手に提げた恭子が顔を出した。


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